印刷 | 通常画面に戻る |

アレクサンドロス/アレクサンドロスの東方遠征

マケドニアの王で前334年に東方遠征を開始、前330年にペルシア帝国を滅ぼして東西に及ぶ大帝国を建設した。征服した各地にアレクサンドリアを建設、ギリシア人を入植させ、ヘレニズム世界を現出させた。前323年にバビロンで死去、その後、帝国は後継者たちによって分割された。

・ページ内の見だしリスト

アレクサンドロスの生涯

 英語の読みではアレキサンダー。ギリシア北方の大国マケドニアフィリッポス2世の子としてペラに生まれる。13歳から3年間、哲学者アリストテレスの教えを受けたという。アテネから招かれたアリストテレスは家庭教師として教育に当たり、アレクサンドロスも熱心な生徒としてギリシア文化を吸収したが、結局はアリストテレスのポリス的世界観を破壊する(克服する?)役割を担うこととなった。王となってから、清貧で知られた哲学者ディオゲネスの教えを請おうと訪ねたが、軽くあしらわれてしまったという逸話も有名である。
 前336年、父王が暗殺されたため、20歳でマケドニア王アレクサンドロス3世(通常はアレクサンドロスでよい。後には大王といわれる)となる。アレクサンドロスはコリントス同盟の盟主としてのマケドニア王位についたので、ギリシアの同盟諸国(スパルタを除く)に対しても統制する立場にあった。アレクサンドロスはまず北方のドナウ川方面を平定し、さらにテーベが離反するととって返してそれを討ち、ギリシア諸国との同盟関係を固めてから、前334年に父の意を継いで、東方遠征に着手した。
 アレクサンドロスの東方遠征軍は各地でペルシア帝国軍を破り、短期間で小アジア・エジプト・メソポタミアを制圧し、前330年にはペルシア帝国を滅ぼし、ギリシアからオリエント世界を含む世界帝国であるアレクサンドロスの帝国を出現させた。さらに中央アジアに入りバクトリア地方などを制圧、ソグディアナ人の抵抗を受け、苦戦を続けていたが、前327年春、捕虜となっていたソグディアナ人の豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚した。
 アレクサンドロスはオリエント世界を征服する過程で、エジプトではファラオとしてふるまい、ペルセポリスではアケメネス朝の後継者として自らを神格化し、宮廷儀礼を採用した。このような東方化政策はマケドニア人・ギリシア人の部下の反発を受けるようになった。中央アジアからインダス川上流を越えてインドに入ろうとした彼の計画は、多くの部将の反対で実現できず、インダス川から方向を転じ、西に向かうこととなった。
 前323年、バビロンで熱病にかかり32歳余で死んだ。その死後は彼の帝国はマケドニア人の後継者(ディアドコイ)によって分割支配されることとなった。彼が作り上げた大帝国は短命ではあったが、ギリシア文明とオリエント文明を融合させ、ヘレニズムという新たな文明の出現をもたらした。
 → アレクサンドロスの大帝国 アレクサンドリアの建設 ディアドコイ ヘレニズム時代

アレクサンドロス大王の東方遠征

 アレクサンドロス大王は前334年から前323年まで、ギリシアの東方、アケメネス朝ペルシアの支配する広大な地域への大遠征を行った。アレクサンドロスの東方遠征の理由は、古来、ペルシア戦争の復讐戦であるとか、大王の領土的野心、インド征服の夢など、さまざまな見解があるが定説はない。大王自身は、自由なギリシアが、僭主や異国人の王に支配され奴隷の境遇にあるアジアの民を解放する戦いであると(あたかも前アメリカ大統領ブッシュのような)戦争目的を部下の将兵に語っている。背景には、ポリス社会の崩壊に伴い、ポリスというよりどころを無くしたギリシア民衆の不満と不安のはけ口を求める声があったのではないだろうか。また、征服地には各地に植民市アレクサンドリアを建設し、ギリシア人を入植させた。遠征後半はペルシア人など現地勢力との融合をはかる政策をとった。これらは東西融合政策といわれているが、その実態はギリシア人の不満分子の隔離という側面もあった。
東方遠征軍の編成 アレクサンドロスの率いたマケドニア軍の編成は、中核をなす騎兵部隊が8隊1800人からなり、騎兵ヘタイロイ(仲間の意味)と美称され、兜と胸当てを付け、腰に短剣を差し、長さ2.7mの槍を片手に握り、方形や楔形の隊形で戦った。マケドニア人歩兵はペゼタイロイという重装歩兵部隊(1500人の部隊が6隊、計9000人)と、ヒュパスピスタイという近衛歩兵部隊(1000人ずつの3隊)の二種があった。前者がフィリッポス2世が創設した、長狭5.5mの長槍(サリッサという)を前の4列が水平に構えるハリネズミ方式をとった。後者は職業軍人、つまり常時兵力であり、遊撃戦、奇襲作戦などで活用された。これらのマケドニア人主力の他に、ギリシア同盟軍、ギリシア人傭兵、バルカン諸民族の部隊など、総兵力は3万7100人にのぼった。また、別に先遣部隊総勢1万、非戦闘員(従者、土木技術者など)を加えれば総勢6万4000になるという。本国残留部隊として12000の歩兵と、1500の騎兵がおかれた。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.112>

東方遠征のルート

 アレクサンドロスは東方遠征に先立ち、前335に北方のトラキアと南方のギリシア本土テーベを制圧。テーベを破壊し、コリントス同盟会議で翌年からの東方遠征を表明した。前334年(22歳)5月ペラ東方のアンフィポリスに軍を終結させ遠征に出発した。以後の遠征は次の三つの時期に分ける。
第1期 前334年の遠征開始から前330年のアケメネス朝滅亡まで  同年夏ダーダネルス海峡を越えグラニコス川の戦いでペルシア軍と最初の戦闘 → ペルシアの小アジアの拠点サルデスに入城、ついでミレトス、ハリカルナッソスを次々に攻略し小アジアを東進 → 前333年11月、イッソスの戦い。初めてペルシア帝国ダレイオス3世と会戦。敗れたダレイオスは東方に逃亡 → 前332年1月、フェニキア人のティルスを苦戦のすえ攻略 → 同年冬、無抵抗のエジプトを占領、古都メンフィスに入る。前331年、ナイル河口にアレクサンドリア市を建設 → 再びシリアに入り、前331年10月、ガウガメラの戦いでダレイオス3世を破る。敗走したダレイオスはさらにアルベラの戦いで北方に逃亡 → 同年末、バビロンに入城 さらにスサに至る → 前330年1月、ペルシア帝国の都ペルセポリスに入る → 王宮を破壊、ペルシア帝国滅亡
第2期 前330年秋の中央アジア侵攻から前326年のインダス川越えと斑点決意まで。 ダレイオス3世を追撃し、エクバタナ(メディアの旧都)へ → ヘカトンピュロス(後のパルティアの最初の都) → カスピ海南岸を経てイラン高原を転戦 → 前329年冬、バクトリアに入る → マラカンダ(現在のサマルカンド)など、ソグディアナ各地を攻略、各地にアレクサンドリアを建設 → 前327年春、パミールの豪族の娘ロクサネと結婚 → 同年秋、カイバル峠を越えてインドに侵入。パンジャブの象部隊と戦う。将兵の中に帰国を望む声強くなる。
第3期 前326年末、インダス河口到達からバビロンに帰還し、前323年に死去するまで。 前325年、インダス河口付近のパタラから西進に転じる → イラン高原南部を西進、別働隊(ネアルコス指揮)は艦隊を編成してインダス河口からペルシア湾に向かう) → 前323年バビロンに戻る。さらに西進し、地中海方面への遠征を考えていたらしいが、熱病にかかり、6月17日に死去、32歳であった。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2007 講談社 p.110~/NHK『文明の道 アレクサンドロスの時代』2003 などによる>
アレクサンドロスの東方遠征
アレクサンドロスの東方遠征
  1. ペラ
  2. グラニコス川の戦い
  3. サルディス
  4. イッソスの戦い
  5. アンティオキア
  6. ティルス
  7. メンフィス
  8. アレクサンドリア
  9. ダマスクス
  10. ガウガメラの戦い
  11. バビロン
  12. スサ
  13. ペルセポリス
  14. エクバタナ
  15. ヘカトンピュロス
  16. バクトリア
  17. サマルカンド
  18. パンジャブ

Episode 大王の戦術と武器

 アレクサンドロス大王の軍は、陸軍が主体で、ギリシアの重装歩兵密集部隊戦術をさらに改良したものであった。甲と脛当に小型軽量の丸楯を防具とし、武器はサリッサという5~6メートルの長槍を用い、密集して方陣をつくり、最前列から第3列までは槍を水平にかまえ、それより後方の列は斜め前に保って突撃し、前列が倒れれば次の列が槍を繰り出し、連続して敵を攻撃した。また、アレクサンドロス軍は、腱または人間の毛髪を堅くよじってそのねじり力を利用した二種類の射出機を用いた。その一つはカタペルテスで、小型で矢や礫を打ち出すのに使い、もう一つはペトロボロスといって20~27キロの石弾を射出できる大型のものだった。<『アレクサンドロス大王東征記』上 岩波文庫の註p.350,354>
※オリバー=ストーン監督の映画『アレキサンダー』では、アレクサンドロスの重装歩兵密集部隊の戦術が再現されている。インド軍の象部隊との戦いは一見すると良い。アレクサンドロスの遠征を湾岸戦争の多国籍軍のアラブへの侵攻と重ねて考えようとしている。

大王の神格化、東方化

 アレクサンドロスはギリシア諸国の「コリントス同盟」の盟主であるマケドニア王として東方遠征を開始、オリエントを転戦することとなったが、その過程で徐々にオリエント的な神格をもった王に変質していった。このような神格化の傾向は、大王の東方化(アジア化)とも捉えられる。
(引用)アレクサンドロスの遺産の中で、後世に最も確実な影響を与えたのは、彼が君主崇拝の先鞭を付けたことである。それはヘレニズム諸国において制度化され、ローマ皇帝礼拝へと発展していった。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.302>
 アレクサンドロスの神格化は、次の四つの段階が区別される。
  • 第一段階 遠征初期までは、両親の系図に基づいて、自分が英雄アキレウスとヘラクレスを通して神の血統につながると信じていた。
  • 第二段階 アモンの神託 前331年 エジプトを平定したアレクサンドロスは、リビア砂漠のシーワ=オアシスにあるエジプトの最高神アモン(アメン)を祭る神殿に参詣した(その神託はギリシア人にもよく知られ、ゼウスと同一視されていた)。神官から「おお神の子よ」と挨拶され、彼がゼウスの子であるとの神託を受けた。やがて彼は宴会でアモン神の聖衣をまとい、アモンの象徴である羊の角を頭に載せて興じるようになった。
  • 第三段階 ペルシア人から跪拝礼を受ける。跪拝礼とはペルシア人の日常の挨拶から発展した宮廷儀礼で、宗教的意味はない。しかしギリシア人から見れば自由人が跪拝するのは神々に対してだけであったから、アレクサンドロスがペルシア人の跪拝礼を受けることの効果を考えていたと思われる。
  • 第四段階 ギリシア諸都市が公式に神格化決議をし、大王がそれを受け容れた。前323年、バビロンに戻った大王のもとにギリシア諸都市の神事使節団が訪れ、黄金の冠を奉呈した。ギリシア人は大王の暗黙の要求を読み取り、自発的に大王神格化を競い合ったのであろう。<以上、森谷『同上書』講談社学術文庫 p.304-306>
 アレクサンドロス自身が神格化をどこまで本気に考えていたかは、プルタルコスやアリアノスの大王伝でも否定的であり、それを受けて森谷公俊氏も慎重に筆を進めている。要するに、アレクサンドロス大王の神格化とは、それによって何かをえようとする人々が「忖度」して成立したのだろう。洋の東西、時代のちがいを超えて権力者に対する忖度は常にあったと言うことか。しかし、アレクサンドロスの神格化・東方化には抵抗もあったことも事実だ。(2017.07記)
アレクサンドロス神格化・東方化に対する反発 前330年 ペルセポリスのペルシア王宮を焼き払い、ダレイオス3世を追って中央アジアに向かったアレクサンドロスは、ダレイオス3世が殺害されてペルシア帝国が滅んだことを受け、ギリシア同盟軍を解散し新たな軍を再結集した。ギリシアの大義を掲げた遠征は名実ともに終結し、ここからはアレクサンドロス自身の遠征が始まる。そしてアレクサンドロス自身がペルシア風の衣装を採用し、旧ペルシア王族を側近に取り立て、アケメネス朝の後継者としての正統性を明らかにした。しかしこの大王の東方化路線は遠征軍内部に亀裂を生むこととなり、前330年秋にはアレクサンドロス暗殺未遂事件が起き、名声のあった部将パルメニオンが関連したとして謀殺された。それ以後も大王の東方化路線に反発する動きがたびたび表面化している。
 アレクサンドロスは宮廷においてペルシア風の衣装を採用しただけでなく、前328年、ペルシア王に謁見者が膝を突いて平伏したのと同じ跪拝礼をマケドニア人、ギリシア人にも導入しようとした。しかしギリシア人は自由人が神々に嘆願する以外に平伏することを屈辱的として強く反発、マケドニア人の将兵も反発したため断念し、ペルシア人など東方人のみが実行することで落ち着いた。<同上書 p.167-8>

集団結婚式

 前324年、アレクサンドロス大王はペルシア帝国の旧都スーサ(スサ)において集団結婚式を挙行した。大王自らがアケメネス王家の二人の娘を娶り、約80人の側近たちにペルシア人、メディア人貴族の女性を与え、さらに約1万人に及ぶ兵士たちにアジア人女性との結婚を認めて祝い金を与えた。
 この集団結婚式は、かつては民族融合策の一環であると解釈されてきたが、それは的外れであるとの指摘がある。その根拠として、まず側近の武将の集団結婚には次のような説明がある。
  • 征服者であるマケドニア人にとって、征服された旧ペルシア帝国の女性を手にいれることは戦利品の分配に当たる。
  • 男性はマケドニア人、女性はすべてイラン人であり、その逆の組み合わせはない。「融合」といった対等なものではない。
  • 側近にとっては将来の出世につながる、昇進のための交換条件にすぎなかった。大王にとっては側近の忠誠心を試す意図があった。
  • これらのカップルの大半はその後離婚したと考えられる。マケドニア人のイラン人に対する差別意識はなくならなかった。セレウコス朝を建てたセレウコスがイラン人の妻アパマと生涯別れなかったのは例外である。
 一般兵士の場合は、アレクサンドロスがアジア人女性と結婚した兵士に名前を届けさせたところ、その数が1万人にのぼったということで、彼らは遠征先で現地の女性と関係をもち、彼女たちは兵士に付き随ってスーサまでたどりついたのだった。つまり「現地妻」であって、政策的な「民族融合」ではない。<森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』興亡の世界史1 2016 講談社学術文庫 p.229-231> → アレクサンドロスの帝国

アレクサンドロス大王の死

 アレクサンドロス大王は、前323年6月10日、バビロンで死去、32歳余であった。後継をどうするか、遺言がなかった。側近の将軍たちは妊娠8ヶ月だった妻ロクサネが男子を産めばその子を王位に就けることとし、2ヶ月後に生まれたその子がアレクサンドロス4世として即位した。摂政となったペルディッカスは将軍たちを集め、総督領を分け合ったが、かれらはそれぞれがディアドコイ(後継者)としての覇権を争うこととなり、前276年まで続く後継者戦争(ディアドコイ戦争)に突入する。

Episode アレクサンドロスの偽遺体

 アレクサンドロス大王は自らゼウスの子と称していたが、バビロンで逝去して今や骸(むくろ)となって横たわっていた。しかし側近の者たちが王位をめぐって内輪もめをしていたため、埋葬されぬままになっていた。「既に世にない人間を土に隠すのは、人間に共通する自然の情が求めるところであるから、極貧の者であっても埋葬の礼は受けるものであるのに、アレクサンドロスは三〇日間も埋葬されずに放置されていたのである。」<アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p.358>
 その時、アリスタンドロスという者に神霊がのりうつり、アレクサンドロスの遺骸を収めた土地は、至福の地となり、永久に滅ぼされることはないであろうと宣(のたま)わった。それを聞いたディアドコイと言われた将軍たちは、おのれの支配地の安全を保障するために大王の遺体を自分のところに運んでいこうと願い、激しく争うことになった。まずプトレマイオスが遺体を手にいれ、エジプトのアレクサンドリアに安置した。多くのマケドニア人は静観して動かなかったが、ペルディッカスという武将の一人だけはプトレマイオスに迫り、遺体の引き渡しを争った。
(引用)プトレマイオスは次のようにしてペルディッカスの激しい追及をかわした。アレクサンドロスにそっくりの似姿を作らせて、これに王の衣装を着せ、豪華な弔いの飾りつけをした。さらに金、銀、象牙をほどこした豪奢な棺を作らせ、像をそれに納めてペルシア風の車の一台に安置した。アレクサンドロスの本物の遺体は間に合わせの粗末な着付けをしただけで、人の通らぬ間道で先に送ってしまったのである。ペルディッカスは偽の遺体と飾り立てた車を手にいれると、見事勝負に勝って賭けられていた賞品を獲得したような気になり、追跡をやめてしまった。後になって騙されたことに気づいたが、その時はもう後を追うことができなかった。<アイリアノス/松平千秋ら訳『ギリシア奇談集』岩波文庫 p.359-360>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

アッリアノス
『アレクサンドロス大王東征記』上 岩波文庫

森谷公俊
『アレクサンドロスの征服と神話』
2007 興亡の世界史1
後に 2016 講談社学術文庫
DVD紹介

オリバー・ストーン監督
『アレキサンダー』