印刷 | 通常画面に戻る |

カンネーの戦い

前216年、第2回ポエニ戦争で、ハンニバル率いるカルタゴ軍がイタリア半島に侵入し大勝した戦闘。その後12年にわたりイタリアで転戦したが、ローマを直接攻撃することなく、前202年に北アフリカに戻り、ザマの戦いで敗れる。

 ローマ共和政の時代の最大の対外戦争であったカルタゴとのポエニ戦争の過程で、前216年ハンニバルの指揮するカルタゴ軍とローマ軍がイタリア半島東南部のカンネー(カンナエ)で衝突した戦闘(第2回ポエニ戦争)。ローマとカルタゴ双方の大軍が衝突した決戦であり、古代史上最大の戦いであった。結果はカルタゴのハンニバル軍が大勝し、ローマは最大の危機に陥った。

ローマとカルタゴの決戦

 アルプスを越えてイタリア半島に侵攻したカルタゴ軍は、ローマの将軍ファビウスが決戦を避けて持久戦に持ち込むという戦術(これによって彼の名は後のイギリスのフェビアン協会の名によみがえることとなる)をとったため、各地を転戦して、補給も十分ではなく消耗を強いられていった。しかし、ローマ側もファビウスの持久作戦にしびれを切らし、長期戦から短期決戦に転換したため、両軍はついに決戦の時を迎えることとなった。
 カルタゴ軍の主力は1万の騎兵と2万のケルト人、その他スペイン人の重装歩兵5千、リビア人やフェニキア人の重装歩兵7千。迎え撃つローマ軍は8万の大軍であり、圧倒的に有利だった。カンネー(カンナエ)はローマから4百キロ近く離れた南イタリア東海岸の原野。カルタゴの将軍ハンニバルはテーベのエパミノンダスやアレクサンドロス大王のアルベラの戦いの斜線陣を採用、ローマ軍主力を盆地に誘い込み、両側から騎兵で挟撃する方法でローマ軍を包囲することに成功、大勝した。ローマ軍の死者は5万、それに対してハンニバル軍の戦死者は5千人。一度に5万以上の死者を出した戦闘は、第一次世界大戦まで無かったという。<長谷川博隆『ハンニバル』1973 講談社学術文庫版 p.104-109 などによる>

Episode 「あの中にはギスコはいない」

(引用)……ところがカルタゴ兵は、平原にあふれるローマ軍の数の多さにおじけづいた。ハンニバルの傍らにいたギスコ(ゲスコン)が口をきった。「なんと、敵の多いことか」。ハンニバルはその言葉を引き取って「君は大事なことを見逃しているぞ。あれほど沢山の人がいたって、あのなかにはギスコという人はいないのだ」と語った。周囲の連中もどっと大笑いした。冗談は口から口へと広まってゆく。笑いは渦となってゆき、兵士たちも心のしこりがとれ、勇気がじわじわと湧き上がってくるのを感じた。<長谷川博隆『ハンニバル』講談社学術文庫 p.106>

参考 殲滅戦の典型、カンネーの戦い

 カンネーの戦いでのハンニバルの勝利は、野戦での完璧な包囲戦に成功したことであった。この勝利は幾世紀も殲滅戦の典型としてナポレオンやクラウゼヴィッツ(19世紀プロイセン王国の軍人、『戦争論』で近代的戦争論を展開した)などの戦術家の手本とされた。またドイツのシュリーフェンは第1次世界大戦前にカンネーの戦いの研究に没頭し、対フランス包囲戦を構想(シュリーフェン計画)したという。
ハンニバル、ローマ進撃を回避 カンネーの戦いでの圧倒的な勝利の勢いにのって首都ローマを攻撃すべきであるという意見が軍の中に強まったが、ハンニバルはローマ攻撃を行わなかった。むしろローマの将軍ファビウスに働きかけて講和を模索した。ハンニバルの目標はローマを滅ぼすことではなく、かつての均衡のとれた両国の併存であったようだ。ローマ攻撃よりも、地中海世界での反ローマ同盟を強化することに目標を置いた。イタリア半島の都市カプアと同盟を結んだのもそのためであり、さらに前215年にはアンティゴノス朝マケドニアのフィリッポス5世と攻守同盟を結んだ。これがローマがマケドニアを攻撃するマケドニア戦争の発端となる。
 しかし、ハンニバルの構想は、イベリア半島でローマ軍がカルタゴ軍を破ったこと、親カルタゴであったシチリア島のシラクサがローマ軍に敗北したことから崩れてゆき、ハンニバルは孤立する状況となった。ハンニバルのカルタゴ軍はカンネーの戦いから14年間もイタリア半島にいながら、ついにローマを落とすことはできず、前202年、ローマの将軍スキピオがカルタゴを直接突くためにアフリカに渡ったことから、本国救援のためアフリカにもどり、両軍はザマの戦いで対決することとなる。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

長谷川博隆
『ハンニバル』
1975 講談社学術文庫