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第2回三頭政治

前43年~前32年、カエサル死後のローマにおける有力な後継者、アントニウス・オクタウィアヌス・レピドゥスが反元老院という政治的立場で一致し、共同統治が行われたこと。アントニウスとオクタウィアヌスの対立により瓦解した。

 カエサル・ポンペイウス・クラッススの第1回三頭政治についで、ローマ共和政末期に出現した、有力三者の妥協による政治同盟。前43年、カエサルの部将アントニウスと、カエサルの養子オクタウィアヌスが、カエサルの部将レピドゥスを仲介役として妥協が成立、アントニウスは東方(エジプト・ギリシア・西アジア)の属州を、オクタウィアヌスは西方(ヨーロッパ、西地中海)の属州を、レピドゥスは北アフリカの属州をそれぞれ支配することとなった。

参考 第1回との性格の違い

 この時の三頭政治は、当時は「国家を組織するための三人官」(国家整備三人委員などともいう)という正式な権限が与えられたものであった。それに対してカエサル・ポンペイウス・クラッススの第1回三頭政治は、当時、そう認識されていたわけではない。このアントニウス・オクタウィアヌス・レピドゥスの正式な三頭政治にならって、後世に名付けられたものである。つまり、第1回は有力者三人が私的に作った同盟関係を後世に三頭政治と称したものであるのに対し、第2回は当時、正式に三頭政治と認識されていた公式の政治形態であったと言える。しかし、その本質は、両回とも、ローマ共和政の中心機関である元老院を押さえて、有力者が実権をふるうために互いに妥協したものである点は同じである。

第2回三頭政治の崩壊

 この第2回三頭政治はアントニウスオクタウィアヌスの対立が再燃することで崩れることとなった。アントニウスはオクタウィアヌスの姉のオクタウィアを妻としていたが、カエサルの死後、寡婦となったクレオパトラの魅力にとりつかれ、ローマを去ってエジプトに移り、彼女とのあいだに三人の子をもうける。正妻オクタウィアは黙って耐えていたといわれるが、オクタウィアヌスは不信感を強めたらしい。アントニウスとの決戦を覚悟したオクタウィアヌスは、そのころ西地中海で海賊行為を繰り返していたセクスティウス(ポンペイウスの遺児)を、盟友のアグリッパの艦隊に平定させ、西地中海の制海権を得ると、前36年、まず三頭政治の一角レピドゥスを失脚させ、アントニウスとの対決に備えた。前34年にアントニウスがローマの東方属州をクレオパトラに寄贈しようとしたことでローマの反アントニウス感情が強まり、ついに前32年にアントニウスがオクタウィアを離縁したことで両者は決定的に離反した。これで名実ともに三頭政治は終わりを告げた。
 前31年、オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウス・クレオパトラ連合軍を破り、さらに翌年、アレクサンドリアを征服してプトレマイオス朝エジプトを滅ぼし、地中海全域の覇権を握った。その上で前27年、オクタウィアヌスはアウグストゥスとして皇帝となり、ローマ帝国の時代となる。
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