印刷 | 通常画面に戻る |

揚州

中国の長江下流の商業都市。大運河の南端に当たり、隋の煬帝が離宮を置いた。明・清では塩商の拠点として栄えた。

揚州 GoogleMap

長江下流(揚子江)北岸、南京の東方約100kmにある江蘇省の商業都市。現在の新字体では「扬州市」。隋の煬帝は大運河に建設してこの地を洛陽、長安につなげ、離宮をおいた。煬帝は、最後に長安を避けて揚州に移り、ここで部将に殺害された。
 唐時代には海上貿易の拠点として栄え、アラビア商人も来て取引が行われていた。アラビア商人(ムスリム商人)はこの地を「カンツー」(江都の音訳)と言った。また、ムスリム商人の居住地もあり、彼らは大食(タージー)と言われていた。
 揚州は日本の遣唐使の中継地でもあった。揚州はの産地で、唐王朝が塩専売制度を敷いてから、塩商人が富を蓄え商業発展の原動力となった。揚州はさらに明・清時代まで商業都市として栄えたが、清末の太平天国の乱で荒廃した。現在では長江下流域の重要な商業都市として復興している。

Episode 里帰りした鑑真和上像

 日本に渡来して戒律を伝えた唐僧鑑真は、この地の大明寺の僧侶であった。大明寺は現在も揚州の旧城内に残っており、かつて日中友好の一環として奈良の唐招提寺の鑑真和上像が里帰りしたことが記憶に新しい。

塩商の繁栄

 揚州の繁栄の原動力となったのは塩商であった。清王朝は明の制度を受け継ぎ、特定の塩商に塩の専売権を与えたため、揚州を根拠地とする塩商は、想像を絶する莫大な利益を手にした。揚州の塩商が我が世の春を謳歌したのは、18世紀の康熙帝の後期から、雍正帝・乾隆帝までの約100年間であった。
揚州の八怪 この間、巨万の富を積んだ大塩商は書籍・書画の収集や出版など、文化事業にも力を注ぎ、揚州には大勢の文学者・学者・画家・書家が集まった。その中には「揚州八怪」といわれる、型破りな画風で知られる一群の画家が現れた。その中の一人の鄭板橋(1693-1765)は詩・書・画いずれの分野でも飛び抜けた才能を発揮した。科挙に失敗して塾の教師をしていた父を持ち、貧しい生活を送る中で文才を発揮し、貧乏生活を題材にした画や詩文で知られるようになった。中年になってから科挙受験を志し、1732年に郷試に合格、1736年には中央での試験もパスして進士となり、50歳で初めて任官した。<井波律子『中国文章家列伝』2000 岩波新書 p.146->
印 刷
印刷画面へ