印刷 | 通常画面に戻る |

五経正義

中国の唐代に編纂された儒学の基本文献に対する官選注釈書。太宗が孔穎達らに命じて編纂させた。

 漢代以来、儒学の基本文献である五経(書経、詩経、易経、礼記、春秋)の注釈書が多数作られ、解釈が一定しなかった。そこで唐の太宗は、儒学者の孔穎達・顔師古らに命じて、最も標準となるべき注釈を選び、それを規準とすることとした。最終的には高宗の653年に完成したこの『五経正義』は、毎年の科挙の明経科の試験での解釈の基準とされることとなった。いわば、センター試験の際の出題を学習指導要領の範囲内で、教科の記述を規準とすることとおなじことで、官選の国定教科書として編纂されたと言うことができる。
 なお、太宗は633年に、『新定五経』を天下に頒布している。これは従来、五経の本文にもいろいろと誤伝が生じてきているので、顔師古(『顔氏家訓』の著者顔之推の孫)に命じて国定の五経テキストとして編纂させた者である。五経の本文とその注釈を確定することによって、儒学の理念による官吏登用制度である科挙の正当性を高めようとしたものであった。

『五経正義』制定の意義

 五経の正文と注疏の国定化は、唐代文化の特色を端的に物語っている。南北朝の政治的対立が、儒学の文献研究である経学にも、南北の差を生んでいた。大局的に言うと、北方の経学は漢代の儒者の説を継承し、江南のそれは魏晋の学風を受け継いでるいえる。『五経正義』はそうしたもろもろの注釈を検討して作られたが、どちらかといえば魏晋系の解釈が多くとられている。しかし、要するにその意義は、南北両文化の統合であり、統一である。そしてここに公定されたものが科挙制と結びつくことによって、新しい統一時代の貴族の教養を形づくったのである。そしてこの『五経正義』の解釈は、統一中国のみならず、日本も含む周辺諸国においてもスタンダードな教養として受け入れらたのだった。<谷川道雄『隋唐世界帝国の形成』1977 講談社学術文庫版 2008刊 p.211-212>

『五経正義』の編集

 唐の呉兢が編纂した、太宗の言行録である『貞観政要』には、『五経正義』の編纂過程が次のように述べられている。
(引用)貞観四年(630)に太宗は、昔からの経典が、聖人の時代から長い年月が過ぎ、文字にも誤りがあるので、前の中書侍郎(中書省副長官)だった顔師古に詔を下して、秘書省(図書保管署)の書籍を調べて五経を校訂させた。作業が終わると、今度は尚書左僕射(尚書省副長官)の房玄齢に詔を下し、多くの儒学者を集めてそれについて重ねて議論させた。その頃の儒学は、それぞれが師匠の学説を受け継いで、長い間誤った解釈が伝えられており、そこで口々に顔師古の校訂に異議を唱え、異論が噴出した。しかし顔師古は、それらに対して晋や南朝宋以来の古い版本を引用して、いちいち明確な証拠を出し、諸学者の考え以上の解釈を示したので、みな感服して従った。太宗はしばらく顔師古を称え、褒美として絹五百疋を下賜し、通直散騎常侍(従三品)の身分を与え、彼が校訂した書籍を天下に配り、学者に勉強させた。
 太宗はまた、学問に多くの学派があり、経典の解釈が煩雑なので、顔師古と国子監の祭酒(学長)の孔穎達ら儒学者に詔を下し、五経の解釈を制定させ、その結果全百八十巻の書物ができあがった。それを『五経正義』と名づけ、国子監のテキストとした。<呉兢/石見清裕訳注『貞観政要 全訳注』2021 講談社学術文庫 p.554-555>
 これによると、『五経正義』の編纂で最も重要な仕事をしたのは顔師古ということになる。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

谷川道雄
『隋唐世界帝国の形成』
講談社学術文庫版 2008刊

呉兢/石見清裕訳注
『貞観政要 全訳注』
2021 講談社学術文庫

待望久しい、全文を文庫本で気軽に読める『貞観政要』が出版された。訳・注は唐代を専門とする歴史学者。