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李白

唐代の詩人。詩仙と称せられた。諸国を放浪の後玄宗に仕えたが、安史の乱で入獄。762年に死んだ。

 りはく。盛唐の詩人。「詩仙」と称せられる、中国の唐詩の作者を代表する詩人である。以下その紹介文。
(引用)杜甫をして“酒一斗、詩百編”と嘆ぜしめた李白こそは、まことに天成の詩人というべきであった。性あくまで合法闊達で何事にも捉われず、若くして遊侠のむれに交り、神仙を慕い、長生不死を願って、進んで仕官を求めることをしなかった。浪漫的で好んで夢幻の境に遊び、酒と女を歌った。また六朝の綺麗を唾棄して漢魏の古えにかえれと主張した。その詩は行くとして可ならざるはなく、長編の楽府詩はもとより、とくに五・七言絶句の絶妙さは余人の追随をゆるさない。<松枝茂夫編『中国名詩選』中  p.28 岩波文庫 1984 一部文字を改めた>

李白の詩

 山中にて俗人に答える(七言絶句)
  問余何意住碧山
  笑而不答心自閑
  桃花流水窅然去
  別有天地非人間
余(われ)に問う何の意にてか碧山に住むと、
笑うて答えず心は自のずと閑(しず)かなり。
桃花、流水、窅然(ようぜん)として去り、
別に天地の人の間(よ)には非(あらざ)るもの有り。

<吉川幸次郎氏の解説>この有名な七言絶句は李白の生活態度を説明する手掛かりになる。俗人は私にたずねる、貴方は何が面白くって、こんな山の中に住んでいるのですか。私は笑って答えず、だまっている。だまっていても私の心にわだかまりはない。しかし、実は李白は答えている。ごらん、谷川の流れの上を桃の花が流れていく。俗人の世界とは違った、別な天地がここにはあるんだよ、と。<吉川幸次郎『新唐詩選』1952 岩波新書 p.58>

放浪志向と出世志向

科挙の受験資格なし 李白は蜀(現在の四川省)の大商人の家に生まれ、幼いときから学問優秀、詩文の才能も抜群だった。しかし、唐代の科挙は未整備であり、商人階層は受験できない規則があったため、李白には受験資格がなく、正規のルートでは世に出ることが出来なかった。このことが李白の生涯を左右したことは否めない。
各地を放浪 世に出る道をふさがれた李白は十代後半から二十代前半にかけて蜀の各地を放浪し、道教の道士と山中で暮らすなど気儘な生活を送った。724年、24歳の時、父から多額の資金をもらい諸国漫遊の旅に出発した。その目的は放浪志向を満足させることもあったが、科挙以外の出世のチャンスを模索することでもあった。遍歴すること三年、江南の安陸(湖北省)で元宰相の許氏の孫娘と結婚した。しかしそれは出世の糸口にはならず、その後も遍歴を続けた。
玄宗の宮廷で 742年、偶然から世に出るチャンスがめぐってきた。友人の道士の推薦で玄宗に召し出されて侍従となった。長安にやって来た李白は「謫仙人」と称賛され注目されたが、李白は老齢の玄宗の周りの品性下劣な連中に失望、泥酔して玄宗の寵愛する宦官高力士に自分の靴を脱がせるなどの傍若無人な狂態を繰り返したあげく、さっと辞任してしまう。玄宗のもとにいたのはわずかに一年数ヶ月に過ぎなかった。
安史の乱 放浪の生活に戻った李白は文学青年だった杜甫などと気ままな生活を送っていたが、755年、安史の乱が勃発、彼は野心家の永王に利用されてその部下となったため、中央の宮廷によって逮捕・投獄される。恩赦となったが、三年後の762年、62歳で病気になって死んだ。舟遊びの最中、水に浮かんだ月を取ろうとして船から転落死したという説もある。見果てぬ夢を追い続けた李白にはこの最後の方がふさわしいようだ。<井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書 2005 p.71-73 吉川幸次郎『新唐詩選』で補う。>
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書籍案内

吉川幸次郎
『新唐詩選』
1977 岩波新書

井波律子
『奇人と異才の中国史』
岩波新書 2005