印刷 | 通常画面に戻る |

鎌倉幕府

11世紀の終わりに日本で成立した武家政権。源頼朝が鎌倉に幕府を開き、源氏が三代で途絶えた後は1221年の承久の乱で後鳥羽天皇の倒幕運動を押さえた執権北条氏が御家人を統括し、1333年まで存続した。鎌倉などに禅宗寺院を中心とした新しい文化を定着させた。

 平治の乱で父源義朝が平清盛に敗れたため伊豆に流されていた源頼朝は、1180年に平氏政権打倒の兵を挙げ、一旦は敗れて安房に逃れたが再起し、関東の武士団を率いて同年10月に鎌倉に入った。その年のうちに大倉の地に御所を建て、侍所を設置した。弟の源義経を派遣して平氏を西海に追い詰めて滅ぼし、権力を握り、その後離反した義経を討つことを名目に1185年には守護・地頭を各地に置くことを認められ、全国支配の体制を作りあげた。その後も公文所・問注所の幕府機能を設けて支配体制を固め、1192年に征夷大将軍に任命された。

参考 鎌倉幕府の成立年

 鎌倉幕府の成立年は、かつては1192年というのが一般的であったが、幕府成立年をいつにするかは古くから諸説あり、現在の高校日本史などでは1185年とされることが多い。それは頼朝自身が鎌倉幕府の成立を宣言したというようなことがなく、徐々にその支配体制ができあがっていったからであり、何を持って幕府の成立とするかという考え方によって、成立年も異なってくるからである。現在、主な成立年代説は次の五つであろう。
  1. 1180年説 源頼朝が鎌倉に入り、実質的に東国の支配者となった。侍所を設置。
  2. 1183年説 頼朝が宣旨を受け、東国の国衙領支配権を認められた。
  3. 1184年説 公文所・問注所が設置された。幕府機構の始まり。
  4. 1185年説 守護・地頭が設置された。頼朝の権力が西国まで及んだ。
  5. 1190年説 頼朝が右近衛大将に任命された。その居館が幕府と言われる。
  6. 1192年説 頼朝が征夷大将軍に任命された。
 このうち、eとfは、形式論であり、実質的には意味が無い。a、b、cは全国支配圏の確立とは言えない。したがって、実質的な全国政権となった時点としては、dの1185年説が現在最も有力となっている。

鎌倉幕府の展開

 その後、鎌倉幕府は日本最初の武家政権として、主として東国を基盤に、将軍と御家人の封建的主従関係を軸とした支配体制を作り上げていった。しかし、将軍の地位は頼朝の家系が3代実朝で途絶えたために実権をなくし、以後は頼朝の妻の政子の実家である北条氏が御家人間の権力闘争に勝ち抜いて執権として実権を握り、執権政治が展開される。特に後鳥羽上皇ら京都の公家勢力が倒幕を図って挙兵した1221年の承久の乱で勝利してからは、執権北条泰時が御成敗式目を制定するなど堅実な政権運営を行い、また文化的にも禅宗を基本とした武家文化が鎌倉に形成させていった。鎌倉時代の社会は西欧の封建社会に対応するものと考えられる。

日宋貿易・日元貿易

 鎌倉時代には南宋との日宋貿易が活発であり、また禅宗の僧侶の往来が幕府の保護のもとに行われた。モンゴルによって南宋が滅ぼされた1276年の前後に二度にわたって元は日本遠征を行い、その間、一時国交は途絶えたが、その後は元朝も朝貢貿易の再開を求め、幕府や朝廷、民間の商人も貿易の利益が大きかったので、民間貿易の形で日元貿易が活発になった。公的には幕府と朝廷が寺社造営料のために派遣する形をとり、建長寺船などがあった。
 元から日本に向かう途中、1323年ごろに沈没したと思われる舟が韓国の新安沖で発見されたことで多くの銅銭や陶磁器が引き上げられ、当時の貿易の規模が大きかったことが判った。また鎌倉を始め、各地で中国の銅銭や陶磁器が出土しており、元寇の後、むしろ大陸と日本の間の貿易は拡大されている。この交流の中で、禅宗の僧の往来もさらに活発となった。 → 鎌倉仏教

鎌倉幕府と元寇

 1274年の文永の役と、1281年の弘安の役という2度にわたる元寇によって鎌倉幕府は大きな危機に直面した。これはフビライが、南宋を追い詰め、高麗を実質的に支配し、ベトナムやジャワなど東南アジア諸地域に勢力圏を広げようとする中で起こったことであり、その世界政策の一環だった。執権北条時宗は御家人をよく統制して戦い、第2回の元寇の時には元軍が暴風のために撤退したため、撃退することに成功した。しかし、活躍した御家人に恩賞としての土地を与えることができなかったことから御家人の不満が高まっていった。

鎌倉幕府の滅亡

 また元寇を境として、御家人の基盤である荘園が貨幣経済の浸透によって崩壊していったため、幕府を支える基盤は次第に揺らぎ始め、幕府はたびたび徳政令(借金のカタとなった土地を御家人が取り戻すことを認める)がたびたび出されており、また在地で有力となった土豪が幕府の統制から離れて悪党といわれるようになり、その動きは幕府を悩ますようになった。その間、御家人と北条氏得宗家を支える御内人との対立が表面化するなど、幕府の統制力は次第に弱体化していった。
 そのような中、幕府に対する不満を持つ有力御家人を味方にした後醍醐天皇が倒幕に立ち上がり、1333年5月21日に新田義貞が鎌倉を後略して幕府を倒し、6月に建武の新政が始まった。しかし、天皇の復古的な政策は武士勢力を軽んじるところがあったため、もとは鎌倉幕府の有力御家人であった足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、室町幕府を樹立した。その後しばらくは、後醍醐の系統を引く吉野の南朝と、幕府の支援する北朝とに朝廷が二分されるという南北朝の内乱が続くこととなる。
印 刷
印刷画面へ