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ペグー朝

ビルマのモン人がペグーを中心に作った国家。パガン朝がモンゴルの侵攻で衰退した後、自立した。都ペグーには仏教文化が栄えたが、16世紀にビルマ人のトゥングー朝に滅ぼされた。

 ビルマ(現ミャンマー)のイラワディ川下流域にモン人がつくった国家(1287年~1539年)。モン人はビルマ人のパガン朝に支配されていたが、パガン朝がの攻撃で衰退し、ビルマがいくつかの政権に分立した際、その一つとして自立した。下ビルマの要地である都のペグー(現在のバゴー)は、上座部仏教の聖地、河港都市としても栄えた。

ペグー朝と仏教

 モン人はパガン朝が滅亡する寸前の1283年にワレル王(在位1287~96)のもとで自立し、ペグー朝を開いた。はじめの王都はマルタバンに置かれ、ビルマ最古と言われる『ワレル・ダンマタ』という法典を編纂した。八代後のピンニャウ王(在位1353~85)の時、王都をペグー(現在のバゴー)に移した。次のラーザダリ王はタイのアユタヤ朝の攻撃を撃退した。
 ペグー朝の支配はイラワディ川下流の下ビルマにとどまり、中・上流のアヴァ朝とは14~15世紀にかけて激しく争った。ラーザダリ王の王女シンソーブは長くアヴァ朝ものもとで捕虜生活を送り、脱出してペグーに帰り、1452年に即位して女王となると、アヴァ脱出の時に随伴した僧の一人を還俗させて王位を譲った。それがダンマゼーティー王(在位1427~92)である。
 このもと僧だった王は、1476年に比丘(僧侶)24名をスリランカに派遣して大寺派で受戒を修得させ、帰国後戒壇を設立した。当時、上座部仏教は六分派が対立抗争していたが、王は大寺派を正統と認め、仏教教団の統一をはかった。その結果、戒壇の権威は高まり、東南アジア各地から求法僧が集まってきてペグーは仏教の聖地の役割を果たすようになった。

商業の発展と滅亡

 1519年にはマルタバンにポルトガル人が商館を置き、ビルマとヨーロッパの関係が始まった。ペグー(バゴー)は河港として地元の漆器、蜜蝋、象牙などが輸出され、東南アジア各地からの宝石、胡椒、中国の磁器、インドの綿布などが取引される商業都市として栄えた。
 しかしその繁栄は、周辺の諸民族がその支配を狙うこととなり、1539年、中部ビルマのビルマ人国家トゥングー朝のタビンシュウェティー王に攻撃され、ペグーは陥落した。
 ペグー(現在のバゴー)は、その後も仏教の中心地として続き、現在も有名なシュエモードー・パゴダの尖塔が聳え、大寝釈迦像で知られるシュエタリャウン寺院、四面大坐仏のチャプイン・パゴダなどが残されている。
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書籍案内

石澤良昭/生田滋『東南アジアの伝統と発展』
世界の歴史 13
1998 中公文庫