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シャルル7世

フランスのヴァロワ朝の国王。百年戦争で窮地に陥ったがジャンヌ=ダルクが登場したことでオルレアンが解放され、自らもランスで戴冠した。その後ブルゴーニュ派との講和を進めて優位に立ち、1453年にカレーを除きイギリス軍を撤退させ、勝利王と言われた。百年戦争を終結させたことによって王権強化に向かい、絶対王政への道を開いた。

 シャルル7世(在位1422~61年)は、百年戦争後期に父シャルル6世が急死したため、フランス王国の王位(ヴァロワ朝)を継承したが、イギリス軍とシャルルの王位を認めないブルゴーニュ派によって実権を奪われ、苦境に陥った。そのとき、神の声を聞いたという少女ジャンヌ=ダルクとシノン城で面会、その言葉に動かされてジャンヌを指揮官に加えて救援軍を派遣した。それによって1429年5月にオルレアンは解放され、さらにジャンヌに促されて、1429年7月ランス大聖堂で正式に戴冠式(塗油式)を挙行した。ランスはフランク王国のクローヴィスが国王として塗油され、歴代のフランス王と同じく聖なる王に列なることとなった。

Episode 国王の自信喪失

 シャルルは父シャルル6世の王太子であったが、母で王妃のイザボー(スペイン王家の出のイザベル)は、夫シャルル6世が精神を病んで統治能力がないことからブルゴーニュ派の後押しで実権を握ろうと、娘カトリーヌがイギリス王ヘンリ5世との間に産んだ王子ヘンリを王太子にした。王位継承権を奪われたシャルルは、イザボーが自分に冷たいのは、実の子では無いからなのではと疑い始めた。イザボーは王妃でありながらあちこちで浮き名を流していたからだ。
 1422年、イギリス王ヘンリ5世とフランス王シャルル6世が相次いで死ぬとフランスは混乱の極みとなった。イザボーとブルゴーニュ派はヘンリ6世(わずか9ヶ月の赤児でまだイングランドにいる)をイギリス・フランス両国の王として立て、それに対してシャルルはアルマニャック派に押されてシャルル7世となった。シャルルはパリに入ることはできず、正式な戴冠式も上げられない上に、自分自身がはたしてフランス王としての血統という資格があるのか悩んでいたので、国王としての自覚と自信がなく、その意味では無能といわれる状態であった。そこに現れたのがジャンヌ=ダルクだった。
(引用)国の情勢がこれほどひどい時はいまだかつてなかった。フランスは自由な国としてはほとんど存在しなくなっていた。英国人の摂政ベッドフォード公がパリで統治していた。二つの分派が国家を取り合っていた。即ち、一方ではフランス人でない十ヶ月の幼児のヘンリ6世、他方ではまだ王太子と呼ばれるか、祝聖されていないというので『ブールジュの王』(註)と呼ばれていた新王シャルル7世。シャルル7世は信心家で優柔不断な性質だった。取り憑いて離れない疑惑が自分の相続権のため戦う勇気を彼から奪っていた。つまり、自分は本当にフランス王家の後つぎなのだろうか、というのである。母親イザボの乱行は彼の疑惑を弁護していた。彼にはほとんど金がなかく、ほとんど軍隊がなかった。しかしフランス国民の意志が彼を支えていた。この国民が正しい立場を感ずるときには、それを勝たせるためにはすべてを犠牲にする覚悟を持つ。正義はそういう時にはこの国のあらゆる村にかくれた味方を見出す。<アンドレ=モロワ『フランス史(上)』1947 新潮文庫 p.126><\span>
(註)シャルル7世はパリに入ることはできず、ブールジュに会計院を置いていたので、庶民から「ブールジュの王」と嘲笑的に呼ばれていた。ジャンヌ=ダルクと面会したのはかつてヘンリ2世が居城としていたシノン城だった。当時、パリはイギリス王ヘンリ5世の代官としてベッドフォート公が治めていた。

シャルル7世の戴冠式

 シャルルはジャンヌ=ダルクが謁見に現れたとき、わざと家臣の中にまぎれていた。王太子の顔を知らぬはずのジャンヌが、大勢の中からすぐに王太子を見分けることができたので、感心し信用することにした。そしてジャンヌの願いを聞き入れ、国王軍の指揮を任せたところ、オルレアン解放を実現した。神の声を聞いたというジャンヌに導かれ、イギリス軍と戦いながらランスに入り、その大聖堂で、クローヴィス以来の歴代のフランス王と同じように聖別された。それはフランス国王という神聖な地位を継承する戴冠式を意味していた。1429年7月17日、シャルルの聖別式(戴冠式)は次のように行われた。
(引用)シャルル7世は大司教によって、サン・レミより運ばれた聖油入れから聖油を注がれた。シャルルは聖別式でも祝宴でも、古式にのっとり、高位聖職者たちによって玉座に登らされ、世俗の貴族がこれに奉持した。それが済むと、彼はサン・マルクーに赴き、るいれき患者に手を触れた。すべての儀式はなんの支障もなく無事に終了した。彼はその時代の信仰空間のなかで、真の、また唯一の、王となったわけである。・・・王が祝聖されたその瞬間、<乙女>(ジャンヌ=ダルクのこと)はただちに跪き、王の膝を抱きしめて熱い涙を流した。誰もが同じように泣いた。<ジュール・ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』1853 中公文庫 1987刊 p.55-56>

百年戦争の終結

 ジャンヌ=ダルクに導かれてランスで戴冠式を挙げたシャルル7世とジャンヌ=ダルクはパリ攻撃に向かった。ジャンヌはパリ突入に失敗し、ブルゴーニュ派に捕らえられイギリス軍の手に渡ってしまい、1431年、魔女として処刑されてしまった。シャルル7世はブルゴーニュ派との和平を進め、1435年にはブルゴーニュ公フィリップとの間で「アラスの和約」を結び、内乱を終結させた。それによってブルゴーニュ派とイギリスの同盟は破棄され、百年戦争の終結への前提を作ったうえでイギリス軍への攻勢を強め、1436年にはリシュモン元帥率いるフランス軍がパリに入城、その後、1450年にはノルマンディを、1453年にはギュイエンヌを回復し、カレーを除いてほぼフランス本土からイギリス軍を撤退させた。この年を以て百年戦争は終結したとされ、シャルル7世は勝利王といわれることとなる。

王権の強化

 ヴァロワ朝シャルル7世は、百年戦争を終結に向かわせながら、王権の強化に努めた。その背景には、百年戦争が続く中で、諸侯・貴族(騎士)は次第に没落し、官僚として王権に仕えることによって生きる存在に転換していったことが上げられる。シャルル7世は、大商人ジャック=クールを登用して財政の整備にあたり、さらに国王軍の創設、官僚制の整備などを進め王権の強化を実現していった。また、王権に対する対抗勢力であったローマ教皇を頂点としたキリスト教教会も、教皇のアヴィニヨン幽閉、教会大分裂以来、衰退の一途をたどり、1438年、シャルル7世はブールジュでの聖職者会議でフランス教会に対して国王の優位性を認めさせた。これによってフランスの教会はローマ教皇権から独立するガリカニスム(国家教会主義)の体制へと向かった。これらのシャルル7世の時代は、フランスの絶対王政への道を開いたということができる。
 しかしその晩年は愛人アニュス=ソレルが国政に介入し、王太子ルイ(後の11世)との確執もあって、苦悩のうちに1461年に死んだ。ジャンヌ=ダルクに励まされてようやく立ち上がったというイメージがあり、一般的には評価は低いが、百年戦争を終結させ、王権の確立に努め、常備軍の組織化を進めたなどの点では、絶対王政の基礎を築いたと評価することもでき、近世フランスでは重要な国王の一人である。
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書籍案内

アンドレ・モロワ
平岡・中村・三宅・山上訳
『フランス史』(上巻)
新潮文庫 1956

ジュール・ミシュレ
森井真・田代葆訳
『ジャンヌ=ダルク』
中公文庫 1987