東方植民
11~14世紀にヨーロッパの北東部でのドイツ人の植民活動。バルト・スラブ人やフィン系民族の居住地に対し、十字軍運動の一環としてキリスト教布教を口実のもとでエルベ川を越えて侵攻し、さらにオーデル川を越えて、現在のポーランド、バルト三国に植民活動を行った。その中心となったドイツ騎士団はプロイセン国家を形成し、後のドイツ国家形成に重要な役割を果たした。また経済的にはバルト海沿岸でのハンザ同盟都市の建設、拡大と結びついていた。
「ドイツ人の東方植民」の動きは、地中海方面での十字軍運動、イベリア半島でのレコンキスタなどと並んで、西ヨーロッパの三圃制農業の普及などの農業生産力の向上、人口の増加に伴う、開拓・開墾の進行という、キリスト教世界の膨張運動の一環と見ることが出来る。特に12世紀のシュタウフェン朝時代に、ドイツ人はエルベ川を超えて東方に活発に植民活動をこない、その地域のスラヴ人居住地域に進出してドイツ化を押し進めた。その過程で、ブランデンブルク辺境伯、マイセン辺境伯、オーストリアなどの有力なドイツ諸侯が登場した。また、バルト海沿岸では、十字軍運動のなかから生まれた宗教騎士団の一つであるドイツ騎士団が皇帝と教皇の勅許を得て植民活動を行い、原住民のプロイセン人をキリスト教化しつつ、広大なドイツ騎士団国家を建設した。<この項 坂井榮八郎『ドイツ史10講』などによる>
ヴェンデ十字軍
ドイツ人のエルベ川以東の地への東方植民の突破口となったのは、12世紀中頃の第2回十字軍の時期に行われたヴェンデ人に対する十字軍であった。ヴェンデ人とはバルト海南岸のエルベ川からオーデル川の間に住む西スラヴ人系住民で、独自の民俗宗教を続けてていた。ザクセン大公などドイツ諸侯はエルベ川以東のヴェンデ人居住地への植民の機会を狙っていたが、シトー派の修道士ベルナールはローマ教皇の意向を受けて1147年にフランクフルト帝国議会で十字軍を勧誘した際、イェルサレムではなく異教徒ヴェンデ人を改宗させるという口実で十字軍を派遣することに同意した。この「北の十字軍」に対しても教皇エウゲニウスは「罪の赦免」を与えることを公認した。それによって1147年7月、ヴェンデ十字軍はマクデブルクを出発、侵攻を開始した。このヴェンデ十字軍は、ヴェンデ人側の抵抗を受け、全面的な改宗をさせることはできず、9月には特段の成果なく終わった。しかし、ヴェンデ十字軍はエルベ川以西のドイツ化をもたらす東方植民の突破口となった。(引用)ヴェンデ人は戦いに敗れ、改宗してドイツ人化するか、隷属または逃亡するか、さもなくば追放されるかせざるをえなかった。彼らは、独立した集団としての誇りと存在、固有の宗教、慣習、法、言語を奪われてしまった。ヴェンデ人はその意味でいわば独立した種族(ネイション)としては「根絶」してしまった。バルト語に属するヴェンデ語もまた、中世後期にはほぼ消滅した。「ハノーヴァーのヴェンデ地区」に住んでいた農民、ヨハネス・パルム・シュルツェは1725年にこう記している。「私は47歳である。この村の私と他の三人が死んでしまえば、ヴェンデ語で犬を何と呼ぶか正確に知っているものはいなうなるであろう」。<山内進『北の十字軍』2011 講談社学術文庫(初刊1997 p.113)>