印刷 | 通常画面に戻る |

吟遊詩人/トゥルバドゥール/ミンネジンガー

中世フランスで騎士の恋愛を題材に歌唱する詩人であるトゥルバドゥールのこと。12世紀に最も盛んになった。ドイツではミンネジンガーといわれた。

 中世ヨーロッパの、特にフランスで、12世紀ごろに盛んだった、宮廷の貴族たちの恋愛を叙情詩にうたいあげた詩人たち。貴族(騎士)自身であることが普通だった。11世紀ごろに南フランスに生まれたトゥルバドゥールや、北フランスのトゥルヴェール、そしてやや遅れて生まれたドイツのミンネジンガーなどが一般に吟遊詩人と言われている。
注意 厳密には、トゥルバドゥールは宮廷で詩作を行う騎士や貴族であり、遍歴したり吟遊したりすることはない。遍歴する芸人はジョングルールという。「吟遊」ということばには遍歴するイメージが含まれるので、この訳語を当てるのは問題があり、「宮廷詩人」、「騎士詩人」などの方が正しいのであるが、現行の高校教科書では「吟遊詩人」の用語が広く使われているので、ここでもこの用語で説明する。 → 下のトゥルバドゥールを参照

12世紀ルネサンスのひとつ

 12世紀から13世紀が最盛期となって、宮廷や地方貴族の邸宅で騎士道的な愛を歌い上げる吟遊詩人が活躍したことは、大学の誕生やゴシック様式建築の流行などとと並んで、中世ヨーロッパの文化に新しい息吹を吹き込んだ、12世紀ルネサンスの一つの動きとされている。しかし、南フランスの異端運動のアルビジョワ派がアルビジョア十字軍によって鎮圧され、その地域がフランス王権に組み込まれるとともにトゥルバドゥールの活動も衰えた。詩作は次の14世紀に、イタリアの初期ルネサンスで再び盛んになる。

騎士道

 トゥルバドゥールは、中世封建社会における領主階級である騎士(ヨーロッパ)の間に広く唱われた。その内容は、彼らの騎士道の理念と結びついた女性への愛をうたうことであった。
(引用)このトゥルバドゥールが歌い上げる愛というのはだいたい宮廷においてなされる、身分の高い貴婦人に対する恋愛です。未婚の女性に対する恋愛ではなく、たとえば領主の奥方とか、既婚の、身分の高い貴婦人に対して、その名を告げずに、一方的に秘めて、そして熱烈な愛を捧げる、そういう騎士的な愛です。これが「宮廷風恋愛」で、それを歌ったものがトゥルバドゥールの愛の叙情詩です。<伊東俊太郎『十二世紀ルネサンス』2006 講談社学術文庫 p.249>
 また、このような説明もある。
(引用)「愛、この12世紀の発明」という言葉もあるように、女性に対する雅(みやび)な愛をロマン的な心情ゆたかに歌いあげたのは、ヨーロッパ文芸史上、彼ら騎士歌人が最初であった。<皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社現代新書 p.60>

トゥルバドゥール

 トゥルバドゥール Trobador は、南フランス、ラングドックやプロヴァンス地方に現れ、12世紀に活躍した、「女性を高貴な存在として認め、彼女に熱烈なロマンティックな愛を捧げる」叙情詩をうたいあげた詩人たち。多くは専門の芸術家ではなく、貴族(騎士)であった。彼らは宮廷や貴族館で騎士たちの恋愛沙汰を題材に、即興の詩をおもしろおかしく、ときにもの悲しく歌い上げ、後の文学の一つの源流となった。
 それがいつ頃に始まったかはかならずしもあきらかではないが、南フランスのポアティエ伯ギヨーム・ダキテーヌ(1071-1127)の舘に集まる貴族たちによってはじまったという見方が有力である。彼らトロバドゥール・ラングドックといわれた南フランスの言葉を用い、ジョフレ・リュデル、バルナルド・デ・ヴァンタドルンといった人々を輩出した。この南フランスのトゥロバドゥール歌曲は、さらに12世紀ごろに北フランスに移植されトルヴェールの歌曲として開花した。さらに1世紀ほど遅れてドイツにも、同じく騎士の間にミンネジンガーといわれる吟遊詩人が現れた。
 中世世俗音楽は、一種の高踏化をみせ、騎士階級のための歌曲として結晶することにもなった。フランス、ドイツにトロバドゥール、トルヴェール、ミンネジンガーなどとよばれた騎士ないし貴族階級の出身のアマチュア歌人による世俗歌曲が盛んになった背景には、11~12世紀に続いた十字軍運動があった。特に南フランスで始まったことは、地中海に進出してきたイスラーム文化の影響が見られるという見解もある。

参考 「遍歴」しなくなったトゥルバドゥール

 日本ではひろくトゥルバドゥールは「吟遊詩人」(山川出版社、詳説世界史)と訳され、一部の教科書では「遍歴詩人」(実教出版)とさえいわれている。ところが、過去の山川の詳説世界史を調べてみると、その説明は微妙に変化していることが判った。
  • 2002年版 「12世紀以来、南フランスやドイツからでた吟遊詩人が各地を遍歴し、市場で語ったり、宮廷にまねかれて騎士の恋愛を題材とする叙情詩を歌った。」<p.141>
  • 2008年版 「おもに宮廷をめぐり歩いて騎士の恋愛を叙情詩にうたったのが吟遊詩人であり、その最盛期は12世紀であった。」<p.158> → 2013年版も同じ。
  • 2017年版(現行) 「おもに宮廷において騎士の恋愛を叙情詩にうたったのが吟遊詩人であり、その最盛期は12世紀であった。」<p.153>
このように、「各地を遍歴」→「宮廷をめぐり歩いて」→「宮廷において」と変化、つまり「遍歴」しなくなっています。かくゆう私も「吟遊」=「遍歴」というイメージが頭から離れなかったために、この変化に気づかず、項目の説明も「歌唱しながら遍歴する詩人」としていました。改めて参考にした伊東俊太郎著『十二世紀ルネサンス』(1993)を読み返したところ、はっきりと次のように書いてありました。
(引用)このトゥルバドゥールとよばれる人びとは宮廷に仕えた芸術家で、いわゆる旅芸人のジョングルールとは違います。これははっきり区別しなければいけないということを『トゥルバドゥール』の著者アンリ・ダヴァンソン(注略)は強く主張しています。ジョングルールというのは旅芸人で、これは町から町へとさまよい歩く大道芸人です。だから歌も歌うし踊りも踊るし、曲芸もするし、その他人形芝居もやりながら、辻から辻に渡り歩きます。トゥルバドゥールというのはそうではなくて、もっと立派な芸術家なのです。実際、領主や貴族がトゥルバドゥールであったりしています。最古のトゥルバドゥールと言われているポアチエ伯ギヨーム9世などは大領主ですね。そこでトゥルバドゥールを吟遊詩人と訳すのはよくないということを、ダヴァンソンの本を翻訳された新倉俊一さんも繰り返し述べておられます。<伊東俊太郎『12世紀ルネサンス』2006 講談社学術文庫 初刊1993 岩波書店>
 そこで伊東氏は「吟遊詩人」ではなく「吟唱詩人」と呼ぶことを提唱しています。山川の教科書のように「遍歴」とか「めぐり歩いて」という表現が消えたのは、この主張をいれたのでしょうが、がんこに「吟遊詩人」という用語は守っている、と言ったところでしょうか。このサイトでもとりあえず、「吟遊詩人」という用語は遺しておきます。(この項は、山本ジョンソンさんからの指摘により変更しました。)

Episode トゥルバドゥールを愛好した王妃

 南フランスに生まれたトゥルバドゥールが、北フランスに広がり、トルヴェールといわれるようになったのには、ギヨーム・ダキテーヌの孫娘でアクィタニアのエレオノールが1137年にフランス王ルイ7世と結婚したことが大きな要因となっている。彼女は祖父ギヨームにまさる教養をもち、その輿入れにさいして何人かのトルバドゥールをつれて北に移り、北フランスの騎士歌曲の発展に影響力をもったのであった。ついでならこのエレオノールは、後にフランス王と離婚してアンジュー伯アンリと結婚するが、そのアンリはやがてイギリス王プランタジネット朝初代のヘンリ2世となり、彼女との間にリチャード1世(獅子心王)、ジョン王(欠地王)などをうむことになる。<皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社現代新書 p.57-58>
 故郷アキテーヌ地方のトゥルバドゥールを愛好したエリアノールの二度の結婚によって、パリやアンジュー伯の宮廷でもそれが大流行するようになったわけだ。(エリアノールについてはヘンリ2世の項を参照)

ミンネジンガー

 南フランスのトゥルバドゥールが北フランスに伝わり、トルヴェールといわれるようになったが、トルヴェールたちは、南フランスのラングドックの言葉を用いて歌曲を作った。このラングドックがすなわち今日のフランス語の源となった。
 さらに、この北フランスの騎士歌曲はドイツに影響を与えることになった。とくに1156年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ、赤鬚王)とフランスのベアートリス・ド・ブルゴーニュの結婚によって、フランスの音楽がドイツに紹介されることになったのが、一つの大きな契機だった。
 彼らドイツの騎士歌人たちは、ミンネジンガー(ミンネゼンガー)と総称される。ミンネとは「愛」の意、まさに「愛のうた人」とよばれるのにふさわしい存在だった。フランスより約半世紀おくれて13世紀から14世紀初頭に繁栄した。ワグナーの楽劇「タンホイザー」の主人公は、物語は虚構であるが、実在の人物であった。<皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社現代新書 p.58-60>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

伊東俊太郎
『十二世紀ルネサンス』
2006 講談社学術文庫

皆川達夫
『中世・ルネサンスの音楽』
初刊1977講談社現代新書
再刊2009 講談社学術文庫