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坤輿万国全図

明末の1602年、キリスト教宣教師マテオ=リッチが刊行した、中国最初の世界全体地図。万暦帝が刊行させ、中国人が中華思想に代わる新しい世界観を与え、日本にも伝えられた。

坤輿万国全図
坤輿万国全図(仙台市博物館蔵)
 末の1602年に北京で刊行された、イタリア人のキリスト教宣教師マテオ=リッチ(利瑪竇)が作成した世界地図。坤(こん)は「大地」、輿(よ)は「乗り物」のことなので、「坤輿」は「乗り物としての大地」、つまり地球という意味になる。大航海時代のヨーロッパで航海者によっていられた情報をもとに新たな発見地を加えて作られた世界図をもとに、マテオ=リッチ自身の知見と構想から作成されたもので、五大州など現在の世界図に取り入れられた特徴も多い。中国においては最初の本格的な世界地図であり、永楽帝時代以来、世界への知識が途絶えていた中国人に大きな刺激となった。また鎖国時代の日本にももたらされ、日本人の世界認識にも大きな影響を与えた。
 なお、清の康煕帝の時代になると、同じように宣教師であるブーヴェ(白進)とレジス(雷孝思)によって、初めて中国本土の実測図として皇輿全覧図の作成が行われ、1719年に康煕帝に献上された。『坤輿万国全図』は世界全体図であり、『皇輿全覧図』は中国のみの実測図であって内容が全く違うので注意すること。

マテオ=リッチの世界地図

 『坤輿万国全図』は、縦179cm、横69cmを一幅とする計六幅からなる大きな絵地図で、マテオ=リッチが作成し、明の万暦帝の30年(1602年)に李之藻(りしそう)が刻版して、北京で刊行された。それ以前に、マテオ=リッチはマカオに来着してから2年目の1584年に広州で『山海輿地図』を作成、それを修正した図が『坤輿万国全図』である。『山海輿地図』は現存していないが、マテオ=リッチは、それまで中国で作成された世界図と称する地図が、いずれも中華世界を中心に置き、それ以外の世界は小さく描いているに過ぎないものだったので、「彼らの思いあがった」認識を改めようと考えて作成したという。しかし、マテオ=リッチはヨーロッパ製の世界地図をそのまま刊行したのではなく、中国人が受けいれられるような工夫をしている。以下、『坤輿万国全図』の特徴的なポイントは次のようになる。
  • 中央経線を太平洋を通る東経170度としている。それまでのヨーロッパで作られた世界図にはない、斬新性を持っており、現在の日本で見られる世界図に近い。中華思想にとらわれている中国人の世界観にも受けいれられやすかったと思われる。
  • 世界を五大州に分けて示した。これは世界図で初めての試みである。五大州は、亜細亜(アジア)、欧羅巴(ヨーロッパ)、利未亜(リビア、アフリカにあたる)、亜墨利加(アメリカ)、墨瓦蠟泥加(メガラニカ)。メガラニカ州とは南半球の南端に広がる広大な陸地とされており、現在のオーストラリア大陸はまだ描かれていない。
  • アメリカ大陸を狭いパナマ地峡でつながる、南北の大陸として正しく描いている。ただその内陸部は未知の地域としている。
  • 五大州の内部の山脈、河川、湖水などの細部を描き、地名を漢字で記入している。その多くは正確だが、一部には現在のフィンランドを「矮人国」とするなど、空想的記述も見られる。
<応地利明『絵地図の世界像』1996 岩波新書 p.168~>

日本での受容

 『坤輿万国全図』は、早くも刊行の翌年の1603年から1606年の間に、わが国にもたらされたと考えられている。地名が漢字表記であったことが他のヨーロッパ製の地図よりもわが国で歓迎されたのであろう。それ以後、近世における世界像の転換に大きな役割を果たした。特に1639年の鎖国以後は、新たな情報が入ってこなくなったので、この図が唯一の権威のあるものとして、広く用いられた。特に、1695年に刊行された西川如見の『華夷通商考』や、1713年の『采覧異言』、1715年の『西洋紀聞』を著した新井白石などの貴重な情報源となった。
 その複製(写本)は各藩で作られている。有名なものは、仙台の伊達藩のもので、藩の天文学者であった名取春仲が作成した。中国の『坤輿万国全図』は単彩であるが、伊達藩のものは五大州ごとに着色したカラフルなもの(右上の図)で、現在は仙台市博物館に所蔵されており、2014年11月に特別展示された。

中国にとっての『坤輿万国全図』

 1584年、マテオ=リッチ(利瑪竇)は広東の肇慶に到着して間もなく、世界地図『山海輿地全図』を印刷した。彼は宣教師で地図学者ではなかったが、この地図はヨーロッパ人アブラハム・オルテリウスが描いたもので当時としては精度の高いものであった。『山海輿地全図』は知府(地方官)の許可を得て印刷されたが、それが中国で初めて印刷された西洋式世界地図であった。そして、それは明の万暦帝に献上された。
 この時はじめて世界地図を目にしたことは、中国人の世界観を大きく揺るがし、それを転換・変化させる標識となった。大きな変化とは、中国人が久しく抱いていた自己中心的な「天下」観、つまり文字どおり「中国」が世界の中心の広大な部分を占めているという観念から、世界には中心はなく、「万国」が林立しているという「万国」観に変わったことである。いわば中国の「グローバル化」が静かに始まったことを意味していた。
(引用)当時、マテオ=リッチ自身も、皇帝がもしこのような地図を見たら中国をこれほど小さく描いたことで自分たちが中国人を見下しているとして罪に問うのではないかと恐れ、さらに多くの守旧的な大臣たちも、この地図を見て故意に外夷を誇張して描いていると言ってこの世界観を攻撃した。しかも彼らは『山海経』の想像した世界や鄒衍の「大九州」と結びつけ、これは中国の古書を剽窃して捏造したデマで、「中国の数万里に及ぶ地を一州としている、矛で盾を突くようなもので反論するまでもなく自らボロを出す」と批判した。だが、李贄、方以知、……徐光啓ら知識人はこの種の世界観を受け入れたばかりでなく、万暦帝までこれを非常に喜び、死後には定陵の皇帝の墓に副葬した。「天下」が変化した意味を理解することなく、喜んで宦官にこの地図をもとにした大幅の『坤輿万国全図』屏風を描かせた。こうして、この地図は合法性、すなわち公的な認可が与えられたことで合理性を備えたことになり、知識階級の承認を得られることになった。<葛兆光/辻康吾監修・永田小絵訳『中国再考―その領域・民族・文化』2014 岩波現代文庫 p.57>
 マテオ=リッチもこの地図によって中国が大中華文化の優越感を捨て、カトリック文明を受け入れることを望み、「彼らは自国が多くの国家と比べてどれほど小さいかを見て取れば尊大さや横暴さがいくらかなくなり、他国と関係を持ちたいと考えるようになるだろう」と述べている。思想的にはこの地図は中国人に一家の事実を教え、その世界観を大きく変えたのだった(要点)。
  1. 人が暮らす世界は平面ではなく丸い形をしている。
  2. 世界は非常に大きく、中国はアジアの十分の一にすぎない。
  3. 古代中国の「天下」「中国」「四夷」は成立しない。
  4. 世界にはさまざまな、平等な文明が存在する。
<葛兆光『前掲書』 p.34,57-59>
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書籍案内

応地利明
『絵地図の世界像』
1996 岩波新書

葛兆光/辻康吾監修
『中国再考
その領域・民族・文化』
2014 岩波現代文庫