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鄭成功

17世紀後半、明の遺臣と称して台湾を支配した。鄭芝竜の子で母が日本人。鄭氏の支配する台湾(鄭氏台湾)は清に服属せず、その死後、1683年まで存続した。

 鄭成功の父は、鄭芝竜という福建出身の海賊集団の首領で東シナ海から南シナ海一帯にかけて活動していた。彼が日本の平戸に滞在中に日本人女性の田川氏と結ばれ、1624年に生まれたのが鄭成功(幼名福松。後に鄭森と名乗る)である。明は台湾へのオランダの進出に対抗するため、鄭芝竜を官につけ、台湾に進出させた。1644年に崇禎帝が自殺して明が滅亡すると明の王室の一部は鄭芝竜を頼り、明の復興を策して清朝に抵抗した。鄭芝竜・成功親子は福建で明の皇帝一族の朱聿鍵(唐王)を立てて隆武帝として擁立した。鄭氏親子の派遣する船は、鎖国下の日本の長崎にも来航し、オランダ船と競っていた。

国姓爺を名乗る

 1645年、21歳のとき、隆武帝から、明王朝の姓(国姓)である朱姓を賜わり(成功という名も与えられたのもこの時)、国姓爺と言われるようになった。爺は「旦那」といったような意味である。鄭成功は華南一帯に残存する明の皇族や遺臣を統合して反清復明運動を起こした。翌年、清軍は隆武帝を捕らえ、父の鄭芝竜に官職と引き換えに降服を促すと、鄭芝竜は清と交渉しようとして北京に赴いたたところで軟禁されてしまった。残されたその子鄭成功は華南の厦門(アモイ)を拠点に反清復明運動を激しく展開した。その年1646年、鄭成功は江戸幕府(将軍徳川家光)に援軍を要請したが、幕府はそれを拒否した。

清の遷界令

 しかし、1659年には南京を奪還しようとしたが失敗した。それに対して清は1661年、華南の福建・広東などの沿岸に遷界令(沿岸地方の住民を内地に強制移住させて無住地帯とし、鄭氏一族との交易をできなくしようとしたもの)を出し、鄭成功を屈服させようとした。

オランダ勢力を撃退

 鄭成功は同じく1661年、2万5千の大水軍を率いてオランダの台湾支配の拠点、ゼーランディア城を攻撃、翌年その勢力を追放した。オランダの台湾支配は終わり、1683年まで、22年間にわたる鄭氏三代にわたる鄭氏台湾の時代となった。これは、台湾における漢人政権の最初のものであった。
 1662年、鄭成功は39歳で病死(清の康煕帝が即位した年である)し、そのあとは子の鄭経が厦門から移って意志を継いだ。鄭氏台湾は三代、22年にわたったが、鄭成功の孫の代で内紛により弱体化し、1683年に康煕帝によって征服される。<戴國煇『台湾-人間・歴史・心性-』1988 岩波新書/伊藤潔『台湾 四百年の歴史と展望』1993 中公新書>

Episode 日本でも人気の高い国姓爺、鄭成功

国性爺

文楽 国性爺合戦の一場面
文化デジタルライブラリーより

 1715年に近松門左衛門の脚本で大坂竹本座で上演して人気を博した浄瑠璃『国性爺(こくせんや)合戦』では、平戸の和藤内(実は鄭成功、和藤内とは和=日本でも唐=中国でもない、というシャレ)が日本に逃れてきた明の皇女を助けて大陸に渡り、明の遺臣呉三桂と協力して韃靼兵(清軍)と戦い、明室再興の宿願を達成し、その功績によって明帝室の「朱」という姓(つまり国の姓)をあたえられたので国姓爺(日本では国性爺と書くのが一般的)といわれた、という話になっている。この話は大半が創作だが、主人公の鄭成功は父が鄭芝竜、母が日本人で平戸の出身の田川氏、彼自身も子供の頃は平戸で過ごした人であることは事実だったので近松の作品は大当たりした。

参考 江戸幕府、明復興協力を断る

 また鄭成功も何度か江戸幕府に応援を要請しており、明と清の争いは日本でも関心が持たれていた国際的な出来事だった。鄭成功が父を殺された清に復讐し、明を復興させようとする話は、日本でもよく知られ、英雄視されていた。しかし、江戸幕閣は1650(慶安3)年、長崎などで中国人から情報を集め、明復興が困難であると判断、鄭成功の要請を断った。このとき、明と清の争いに介入して大陸に出兵しようという主張もかなりあったらしい。現代と同じような海外派兵の要請が江戸時代にあったことは興味深いが、時の幕閣が海外派兵をしなかった(あるいはできなかった)判断は正しかったと思われる。
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奈良修一
『鄭成功―南海を支配した一族』
世界史リブレット 人
2016 山川出版社