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キリスト者の自由

1520年に発表されたルターの主著。ローマ教会の権威を否定し、信仰と隣人愛を説いて大きな反響を呼び、教会はルターを破門にしたことによって宗教改革が本格化した。

 ドイツの宗教改革を推進したルターが1520年に発表した主要著作。ルターは前年、ライプツィヒにおいて神学者エックとの論争を行い、ローマ教会との妥協は困難であり改革は必至であることを自覚し、キリスト教の信仰のあり方について自己の明確な見解を示さなければならないと考え、『キリスト教界の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に告ぐ』、『教会のバビロン捕囚』とこの『キリスト者の自由』の三論文を次々と発表した。その中でもこの『キリスト者の自由』は、原書でわずか20ページの小冊子であるが、印刷されると直ちに大きな反響を呼び、宗教改革の理念である福音主義信仰義認説万人祭司主義などを最もわかりやすく説いた書物として普及した。ローマ教会はこの書の中に見過ごせない教皇及び教会を否認する見解があるとして、その著作の撤回を命じたが、ルターはその教皇勅書を公衆の面前で焼却した。ローマ教皇は1521年初め、ルターを破門し、ここに両者の対立は決定的となった。

『キリスト者の自由』

 ルターはこの『キリスト者の自由』において、まず、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」という命題と「キリスト者はすべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する」という互いに矛盾する二つの命題をかかげ、それをどう理解するかを問いかけている。ルターの言っていることを聞いてみよう。
キリスト者の自由とは 身体的な自由ではなく霊的な自由であり、キリストが「人はパンだけで生きるものではなく、神の口からでるすべての言で生きる」(マタイ伝4章4節)と言ったとおり、神の言(つまり福音)に従って生きことことである。
(引用)キリスト者は信仰だけで充分であり、義とされるのにいかなる行いをも要しない。・・・彼がいかなる行いをももはや必要としないとすれば、たしかに彼はすべての誡めと律法とから解き放たれているし、解き放たれているとすれば、たしかにかれは自由なのである。これがキリスト教的な自由であり「信仰のみ」なのである。それはなすことなしになまけ怠り気儘勝手に振舞ってよいというのではなく、われわれが義と祝福とに達するのに何の行いをも必要としないとの結論に導くものなのである。<ルター/石原謙訳『キリスト者の自由』岩波文庫 p.21>
 ルターの言う「キリスト者の自由」とは、カトリック教会と教皇の権威や規則、強制された行為(贖宥状の購入など)から解放され、信仰のみによって生きることを意味している。
キリスト者が僕(しもべ)であるとは この地上では人間は他の人びとのなかに生活している。そのため人は他の人びとに対して行いなしにいることはできない。パウロがキリストの生き方を模範として、「他に対しては愛をあらわし、たがいに他に仕え、またおのおの己れ自らをも己れのものをも念とすることなく、他の人とその要するものとを顧みるようにしなさい」(ピリピ人への手紙2章1節)と説いたように、隣人を愛し、隣人に奉仕しなければならない。
(引用)キリスト者は今や全く自由ではあるが、しかし彼は喜んでその隣人を助けるためには己れを僕となし、あたかも神がキリストを通して彼と関わりたもうたように、彼とかかわり行うべきである。・・・キリストがわたしのためになりたもうたように、わたしもまたわたしの隣人のために一人のキリストとなろう。・・・見よ、かようにして信仰から神への愛とよろこびとが溢れいで、また愛から、価なしに隣人に奉仕する自由な、自発的な、喜びにみちた生活が発出するのである。<ルター『同上書』 p.43-44>
 つまりキリスト者は自由であることとともに、隣人に無償で奉仕する僕でなければならないと説いたのである。
ルターの教会批判 このように考えたとき、聖職者と教会(その頂点にある教皇)が祝福のためと称して信者に善行を強制することは誤っていると言わざるを得ない。
(引用)これらのすべてのことにおいて何人もただ己れのことのみを求め、かくて己れの罪過をつくなって祝福されると自惚れているのではないかを、私は恐れるからである。これらすべてはひとえに信仰及びキリスト教的自由の無理解から由来している。そしてある盲目な高僧たちは人々をここに導いてこれらのことを称賛し、贖宥(赦免状)を以て飾り立てはするが、決して信仰を教えようとはしない。けれども私は勧告する。あなたがもし何かを寄進献納し、祈願し、断食したいと思うなら、あなた自身に善いことを求める意図をいだくことなく、他の人々がこれを喜びとすることのできるように惜しみなく施しあたえ、彼等に益するようにこれを行うべきである。そうしたらあたなたは真のキリスト者である。<ルター『同上書』 p.48>
信仰と隣人愛こそ真の自由 最後の第30節で、ルターは次のように結論づけている。
(引用)キリスト教的な人間は自分自身においてではなくキリストと彼の隣人とにおいて、すなわちキリストにおいては信仰を通じて、隣人においては愛を通して生活する。彼は信仰によって、高く己れを越えて神へと昇り、神から愛によって再び己れの下に降り、しかも常に神と神的な愛とのうちにとどまる。・・・見よ、これが、心をあらゆる罪と律法と誡めとから自由ならしめるところの、真の霊的なキリスト教的な自由であり、あたかも天が高く地を越えているように、高くあらゆる他の自由にまさっている自由なのである。神よ、われわれをしてこの自由を正しく理解し且つ保つことをえさせて下さい。アーメン。<ルター『同上書』 p.49>
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書籍案内

ルター/石原謙訳
『キリスト者の自由・聖書への序言』1955 岩波文庫