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カザン=ハン国

南ロシアのモンゴル系国家。1552年にロシアに併合される。

 モンゴル帝国の4ハン国の一つキプチャク=ハン国の分国の一つで、1437年に成立しロシア南部のヴォルガ上~中流地域を支配、首都カザン市は交易の中心として繁栄した。1552年、ロシアのイヴァン4世は、このカザン=ハン国を征服し、その併合がロシアの東方進出の第一歩となった。カザン=ハン国があったヴォルガ中流域は、現在はロシア連邦内のタタールスタン共和国となっており、人種的にはトルコ系のタタール人が多く、彼らの多くはイスラーム教徒である。

カザン=ハン国と「タタール人」

 カザン=ハン国が栄えていたヴォルガ中流域には民族分布としてはタタール人とそれに近いバシキール人が多い。彼らの民族的起源は詳しくは分からないが、先住民のフィン=ウゴール系民族を基層として、そこに紀元後7~8世紀頃、トルコ系のブルガール人がこの地域の森林地帯に移住してきて定住(トルコ系遊牧民で定住に踏み切った最初とされる)しヴォルガ=ブルガール王国を建国、さらに11~12世紀にキプチャクという同じくトルコ系民族集団が渡来して支配を受けながら、混交を深めた。ブルガール人はヴォルガの水運を利用して交易活動を活発に行うようになり、取引相手のアラブ人を通じてイスラーム教を受け入れ、922年5月12日にブルガール国家としてイスラーム教を受け入れ、アニミズムと訣別した。このブルガール国家は1230年代にモンゴルの征服を受けたが、モンゴル国家を構成するキプチャク=ハン国の内部で自治を認められ、毛皮貿易で中東・ヨーロッパとつながって繁栄した。この国家は支配層のモンゴル人がトルコ系ブルガール、キプチャクの言語・文化に同化したもので、1273年のキプチャク=ハン国自身のイスラームの国教化によって促進された。そして、ロシアで征服者のモンゴル人を意味した「タタール」がブルガールの名にとってかわり、彼らは自らもタタール人と言うようになった。

カザン=ハン国の成立

 ブルガール国家は1395年にティムールの侵略を受け、それまでの中心地カマ川沿岸を捨ててヴォルガ川右岸に移り、そこにカザンを建設した。1438年、ウル=ムハンメドの時に中央集権化が進み、カザンを首都とするカザン=ハン国となった。園芸や家畜飼育と結びついた三圃耕作を行う農民からヤサクという現物貢納を納めながら、狩猟による毛皮が主要産物となった。タタール商人は毛皮・魚・奴隷などをモスクワ大公国クリム=ハン国と交易し、15~16世紀のカザンはヴォルガ流域最大の経済中心地となり、東欧・北欧とアジアとの毛皮貿易で栄えた。16世紀中ごろのスユム=ビケ女王の時代はメドレセやモスクが建ち並び、イスラーム学術の中心でもあった。

カザン=ハン国の衰亡とロシア化

 大航海時代の開始による通商パターンの変動はユーラシア内陸ルートを衰退させ、カザン=ハン国の衰亡ももたらした。折りからモスクワ大公国とクリム=ハン国による介入もあって内紛が激しくなり、1552年のイヴァン4世(雷帝)に征服され、滅亡した。その後、ロシア帝国によるロシア化が進められ、カザンは行政の中心都市として完全にロシア人の都市となり、タタール人のヤサク農民の土地はロシアから移住したロシア人に奪われていった。ロシア正教の強制も行われ、改宗したタタール人もいたが、多くはイスラームの信仰を守るために中央アジアなどに離散していった。  <カザン=ハン国については、山内昌之『スルタンガリエフの夢』1986 岩波現代文庫再刊 2008 第1章による> → タタール人

世界遺産 カザン=クレムリン

 ヴォルガ中流の大都市カザンは、イスラーム教徒トルコ系ブルガール人が城塞都市として築き、カザン=ハン国の都として栄えていたが、1552年、ロシアのイヴァン4世に征服された時に破壊された。その後、16世紀後半にカザンがヴォルガ方面の大都市となるに伴いロシア正教会などの建築が盛んに造られた。代表的な建造物であるブラゴヴェシェンスキー大聖堂これらはロシア革命で破壊されたが、ソ連崩壊後に再建された。1995年にはカザン=ハン国時代のクル=シャーリフ=モスクの再建が着手され、2005年に完成した。これらの建造物群はカザン=クレムリンと言われて2000年に世界遺産に登録された。ロシア正教とイスラーム教の平和的な共存が評価されたと言うが、クレムリンの再建を強引に進めたのは、タタールスタン共和国のシャイミーエフ大統領である。大統領は1992年にはロシア連邦からの独立を宣言、94年には撤回したが、なおも独立問題はくすぶっている。世界遺産に登録された文化財はタタールスタン独立のデモンストレーションの一つでもあるようだ。
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