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アン

18世紀初頭、イギリス・ステュアート朝の女王。イギリスの海外領土の拡大、スコットランドとの合同が実現した。

 イギリス・ステュアート朝の最後の女王(在位1702~14年)。父のジェームズ2世と違い、姉のメアリとともにプロテスタント(イギリス国教会)の教育を受け、名誉革命でも姉メアリを支持した。名誉革命で即位したメアリとその夫ウィリアム3世には子がなかったので、将来、王位継承問題が起こらないようにするため、1701年に王位継承法を定め「ステュアート家の血を引く者、具体的にはジェームズ1世の孫娘のハノーファー選帝侯妃(ゾフィー)かその直系卑属にしか王位継承権はない」と定めていた。しかも王位継承者はイギリス国教会の信者であること、それを擁護することを誓わなければならなかった。1702年、ウィリアム3世が死去し、王位継承法の規定に従って、アンが即位した。アンはジェームズ1世の曾孫にあたり、国教会信者であった。

アン女王戦争・大ブリテン王国

 このアン女王の時にイギリスは、ヨーロッパでは1701年からのスペイン継承戦争と北米植民地では1702年からのアン女王戦争で、フランスに対する勝利を収め、イギリス革命の混乱を克服して発展を継承させた。スペイン継承戦争ではアン女王も自ら戦場に赴き、軍を激励したという。またアン女王の時の1707年には、イングランド王国がスコットランド王国を併合して大ブリテン王国が成立し、名実ともにイギリス王となった。
 1714年、後継がないまま死去したので、イギリス王は王位継承法に基づき、スチュアート家との血縁関係からドイツのハノーファー選帝侯が継承することとなり、ジョージ1世が即位し、ハノーヴァー朝となる。

Episode 王位継承令と不幸なアン女王

 ウィリアム3世とメアリの間には子供がいなかった。将来、王位継承で問題が起きることを懸念したウィリアム3世は、1701年に王位継承令を発布し、「今後の王位はステュアート王家の血を引くプロテスタント」でなければならないと決めた。それによってウィリアム3世の次は、メアリの妹のアンが即位した。アンはデンマーク王の次男ゲオルク(註)と結婚し、18人もの子供が生まれたが、不幸にしてそのすべてが死産か、子供のうちに死んでしまい、「子供を次々と失った悲しみでアンは酒におぼれ、37歳で王位についたときも肥満ゆえに歩行がままならず、加えて痛風に悩まされるという惨憺たるありさまだった。」ウィリアム3世の懸念したとおり、王位継承が問題となってしまったが、王位継承令がうまく機能し、大きな混乱もなく、ジェームズ1世の孫のゾフィアの子であるハノーヴァー選帝侯ジョージが継承することとなった。<小林章夫『イギリス王室物語』1996 講談社現代新書 p.118>
※ゲオルクは英語読みではジョージ。デンマーク王家の王子なので本来ならデンマーク語発音ではヨウエンとすべきところ。
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小林章夫
『イギリス王室物語』
1996 講談社現代新書