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ポーランド分割

18世紀末、ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリア三国によって3度にわたり分割されて、国家が消滅した。ポーランドは第一次世界大戦後の1918年に独立を回復した。

ポーランド分割
ポーランド分割を風刺した図。
左からエカチェリーナ2世、ポーランド王、ヨーゼフ2世、フリードリヒ2世
 18世紀末、ポーランドが隣接するロシアプロイセンオーストリアの三強国によって分割され、国家を消滅させたこと。

ポーランド王国の衰退

 ポーランドではヤゲウォ朝が断絶した1572年から選挙王制となっていた。1700年に始まった北方戦争はロシアとスウェーデンが主たる対立国であったが、ポーランドもロシアと結んで戦った。開戦当初、ロシアが敗北するとスウェーデン軍がポーランドに侵入、親ロシアのポーランド国王は追放され、親スウェーデンの国王が即位した。
 それ以後、国内ではシュラフタが議会で自由拒否権を行使した権力争いに終始し、また国王の選出をめぐっては周辺のロシア、プロイセン、オーストリア、フランスなどの有力国が介入し、1733年にはポーランド継承戦争と言われる戦争も起こり、国家の統一の維持が次第に困難となっていった。このようにポーランド王国政府自体が当事者能力を失って行き、周辺の絶対王政を強化した諸国の餌食とされてしまった。

分割の経緯

ポーランド分割

ポーランド分割

 ポーランド国王スタニスワフ王は議会での自由拒否権の制限や軍事、財政の改革などを図ったが、エカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ2世とともにポーランドに介入した。その口実はポーランドにおいてカトリック教徒以外のギリシア正教徒とプロテスタントにも政治的平等を認めよというものであった。
 弱体化したポーランドに対し、まず、ロシアのエカチェリーナ2世がその全土の保護領化を狙った。それを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世が、オーストリアのヨーゼフ2世(実権はマリア=テレジア)をさそい、1772年第1回の分割をポーランドに認めさせた。
 第1回分割はポーランド国内に深刻な危機感を呼び起こし、国王による改革が行われ、憲法も制定された。しかし、ロシアのエカチェリーナ2世は、フランス革命が進行して西欧諸国が忙殺されている間に残りのポーランドの領有を狙い、プロイセンのフリードリヒ=ウィルヘルム2世とともに、1793年第2回分割をポーランドに迫り、承認させた。第1回対仏大同盟に加わっていたプロイセンとオーストリアのうち、オーストリアはフランス革命軍に敗れたため、ポーランドには関与できなかった。この第2回分割に対して、翌年、ポーランドのコシューシコは農民を組織して蜂起し、ロシア軍と戦ったが敗れ、1795年第3回分割が、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって行われて、ポーランドは国家としては地図上から消滅する。

ポーランド第1回分割

1772年、ロシア、プロイセン、オーストリア三国によってポーランドの一部が分割された。

 1772年、まずロシア(エカチェリーナ2世)とプロイセン(フリードリヒ2世)との間で条約が締結され、オーストリア(ヨーゼフ2世)がそれに加わった。三国から領土分割を迫られたポーランド議会は、若干の反対はあったが、翌年領土割譲を承認した。プロイセンは「王領プロイセン」(1466年ドイツ騎士団がポーランドに譲った土地)を領有し(中心都市グダニスクは除く)、ロシアはリヴォニアとベラルーシの一部を、オーストリアはガリツィア地方の一部をそれぞれ獲得した。これによってポーランドは領土の30%と、人口の35%を失った。
プロイセン王国の一体化 ポーランド第1回分割を行った三人の君主(いずれも2世)が得た領土の面積は、プロイセンのフリードリヒ2世は3万6000平方㎞、オーストリアのヨーゼフ2世は8万2000平方㎞、ロシアのエカチェリーナ2世は9万2000平方㎞であった。プロイセンの取り分が最も少なかったが、フリードリヒ2世にとっては領土の多少は問題ではなかった。これによってブランデンブルク選帝侯国の本領とプロイセン公国がこれによって一体となったことに意味があるのだ。これによって東西に分断されていたプロイセンが、悲願であった地続きの一つの国家、文字どおりのプロイセン王国となったのだった。

ポーランド第2回分割

1793年、フランス革命の最中にロシアとプロイセンの二国によってポーランドの一部が分割された。

ポーランドの改革 第1回ポーランド分割の後、ポーランド王国では危機感を強め、国政改革を行い、国家の独立を維持しようと言う努力がなされた。1791年には「5月3日憲法」が制定され、シュラフタによる国王選挙と自由拒否権は廃止され、立憲君主制・三権分立・義務兵役制などが定められた。この憲法は、アメリカ憲法に次ぐ早い時期の近代的憲法であった。また、ポーランドの身分制議会の悪弊であった「自由拒否権」を否定して、多数決で議決できるとした。また王位も不安定な選挙王制をやめ、ザクセン家の世襲とされた。さらに土地を持たぬシュラフタは議席を失い、代わりに都市代表が加わった。しかし、この憲法は1年しか持たなかった。
エカチェリーナ2世の介入 ロシアのエカチェリーナ2世は、新憲法を「フランス革命の伝染病」だとして嫌悪し、大量のロシア軍を送って弾圧した。ポーランド軍は激しく抵抗したが、ポーランド国王はロシアに妥協して停戦、憲法の停止などを約束した。停戦に反対したコシューシコなどの将校は辞任して亡命した。
プロイセンの分け前要求   プロイセンは1792年9月にヴァルミーの戦いでフランス革命軍に敗れていた。しかし、対仏戦争を続行する代償としてポーランド分割を強硬に要求した。対仏大同盟の結成へと動いていたエカチェリーナ2世はその要求を容れ、オーストリアがポーランド問題に無関心(バイエルン併合の幻想を抱いていた)を表明すると、1793年1月、ペテルブルクでロシア・プロイセンの二国によるポーランド分割協定に調印した。
沈黙を同意と見なす ポーランドでは第2回分割を承認するかどうかで議会が開かれた。ロシア公使は反対する議員を逮捕し、議場を大砲で包囲した。誰一人として賛成の演説をするものはいなかった。議場は沈黙したまま真夜中まで続いた。議長がついに沈黙は同意の印と見なすと宣言して終了した。
第2回分割 こうして1793年、ロシア軍の監視下の議会は、ロシアとプロイセンへの領土割譲を承認した。ポーランドはロシアにベラルーシ東半とウクライナの大部分、面積にして25万平方キロと人口300万を、プロイセンにポーゼンとダンツィヒ(グダンスク)を含む5.8万平方キロと人口100万の土地を譲った。残ったポーランド領は20万平方キロの土地に400万の人口に過ぎなくなり、議会は存在するものの招集されないという事実上のロシアの属国と化した。
コシューシコの蜂起 この第2回分割でポーランドは事実上国家機能を失った。国家消滅の危機に対して、翌1794年コシューシコらが蜂起したが、期待したフランスの救援が無く、コシューシコ自身も負傷して捕らえられて、鎮圧された。<山本俊朗・井内敏夫『ポーランド民族の歴史』1980 三省堂選書 p.52-72>

ポーランド第3回分割

1795年、残された国土をロシア、プロイセン、オーストリア三国が分割しポーランドは消滅した。

 コシューシコが蜂起すると、ロシアのエカチェリーナ2世はプロイセンにも鎮圧の協力を要請し、「隣国で突発した火事を、その最小の火花まで消し去るだけでなく、灰殻から新たに燃えあがる可能性を永遠に取り除くために、近隣三宮廷が隣国を領有するときが来ました」と述べた。反乱を鎮圧したエカチェリーナはポーランド国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキに退位を強く迫り、1795年、ロシア・プロイセン・オーストリアによるでポーランドの最終的分割を行った。
 これによってポーランド国家は完全に滅亡し、政治地図から姿を消すこととなった。その後、ナポレオンによるワルシャワ大公国の建国、ナポレオン没落後はロシアの実質支配の下におかれたポーランド立憲王国の時代を経て、ポーランドが独立を回復するのは、第一次世界大戦後の123年後の1918年のことである。 → ポーランドの独立