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総裁政府

1795~99年のフランス共和政の行政府。政情不安定が続き、ナポレオンの台頭を許した。

 フランス革命で成立した第一共和政の後半、テルミドールのクーデタでジャコバン派がたおされた後の、1795年憲法によって成立したフランス共和政下の政治体制。1795年10月から1799年11月まで存続した。
 政府は5人の総裁からなる集団指導体制がとられ、250名の議員からなる元老会と下院にあたる五百人会の二院制がとられた。五百人議会の選挙は財産資格による制限選挙に戻された。1795年憲法は私有財産の不可侵を掲げ、財産資格による制限選挙でブルジョワ有産者階級の利益を守り、王政への復帰とジャコバン独裁の再現のいずれをも防止することをはかった。

王党派の反乱

 しかし、総裁政府は常に、左右両派から脅かされることとなった。まず王党派の反乱に直面した。1795年10月、王党派は共和政反対を掲げ、総裁政府の転覆をねらってパリで武装蜂起した。総裁政府はその反乱を26歳の軍人ナポレオンに命じて鎮圧し、次いでナポレオンを国内軍最高司令官に抜擢した。これがナポレオンの台頭のきっかけとなった。1797年3月の選挙(財産による制限選挙)でも王党派が多数を占めたので、危機感を持った総裁政府は9月に軍隊を動員して王党派議員を逮捕するというフリュクチドール(実月)のクーデタを行った。

バブーフの陰謀

 さらにそれより前、1796年春、私有財産制の廃止を唱えて武装蜂起し政府を転覆しようとしたという容疑でバブーフらが逮捕された。これがバブーフの陰謀と言われた事件で、バブーフは処刑されたが、共産主義の運動の先駆とも言われている。危機感を持った総裁政府は、1798年5月には今度は左派の議員を議会から排除するというフロレアル(花月)のクーデタを実行した。しかし、1799年6月には議会で左派が台頭し、総裁の二人が排除されるというプレリアル(草月)のクーデタが起こった。

ナポレオンの台頭

 このようなあいつぐクーデタ騒ぎで政情不安が強まり、また対外的な戦争でも不利な情勢が出てきたため、強力な指導力と軍隊を力がにわかに待望されるようになった。そこに台頭してきたのが、ナポレオンであった。より強力な政権を望むブルジョアの支持を背景にしたナポレオンは、1799年11月のブリュメール18日のクーデタで総裁政府を倒し、自ら第一統領となって革命の終結を宣言した。
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