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ゼムストヴォ

ロシアのアレクサンドル2世の改革の一環として、1864年に設けられた地方自治機関。

 クリミア戦争敗北後のロシア社会の近代化をめざしたアレクサンドル2世が、農奴解放令に加えて、1864年に設置した地方自治機関をゼムストヴォという。
 ゼムストヴォは、県と郡にそれぞれ県会と郡会が置かれた。まず郡会議員は農村自治体(ミール)より一定数の代表が出るほか、一定の広さの土地を有する者の選挙によって選出された。その際、貴族身分の者が議員の過半を占めるように定められていた。郡会議員が県会議員を選出することができるので、県会議員は間接選挙であった。郡会、県会はそれぞれ参事会を選出し、郡会・県会の決議に基づいて、行政に当たった。

限界と意義

 ゼムストヴォの参事会が関与する範囲は、食糧確保・道路整備・郵便保険・医療保健・生活保護・火災防止・教育・産業振興などであったが、郡会・県会は1年に1回しか開会されず、重要案件や参事会人事は県知事の承認が必要であり、県知事はいかなる決定についても差し止める権限をもっていた。従って、地方自治といっても限られた範囲であり、県知事に実質は強く押さえられていた。中央政府は県知事を通じ、参事会人事に介入してコントロールできるようになっていた。<和田春樹・和田あき子『血の日曜日』1970 中公新書 p.7-8>
 このような限られた権限であったが、ゼムストヴォは地方自治の基盤として定着し、次第に自由主義者、共和主義者の進出が目立つようになってきた。19世紀終わりには、彼らはゼムストヴォの地方自治を、全国のゼムストヴォを統合して国家規模にすべきであるという運動が起こしていった。こうしてゼムストヴォを基盤とした西欧風の立憲政治をめざす第一回ゼムストヴォ大会が1902年5月、モスクワで開催された。それに対して政府は、ゼムストヴォ間の横の連絡を禁止し、関連する出版物を発禁にして抑圧した。第2次ロシア革命のソヴィエト政権樹立に伴い、1918年に廃止された。
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