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パリ万国博覧会

フランスの第二帝政期、ナポレオン3世はサン=シモンの産業社会論を援用し、1855年と67年の二度、パリで万国博覧会を開催、イギリスに対抗し、フランスの産業革命の達成を世界にアピールした。

 ナポレオン3世第二帝政ではサン=シモン主義者をブレーンとして登用し、鉄道の建設、銀行の設立など、産業育成策が積極的に図られたが、その一環としてパリの大改造が行われ、また時代を象徴するイベントとして1855年に第1回、1867年に第2回の2度、パリ万国博覧会を開催した。万国博覧会はヴィクトリア朝のイギリスにおいて、1851年に第1回ロンドン万国博覧会が開催されていたので、1855年パリ万国博は万国博としては第二回にあたる。

サン=シモン主義者シュヴァリエ

 ナポレオン3世のパリ万国博開催に大きな影響を与えたのがサン=シモン主義であった。その一人、ミシェル=シュヴァリエはサン=シモン教会(サン=シモンの弟子のアンファンタンが主催する教団)に加わったが、教団が自由恋愛を主張しているという理由で解散を命じられ、彼も宗教的情熱から次第にサン=シモンの産業社会の建設を考えるようになった。アメリカに渡って鉄道事業が伸展しているのを目撃して、フランスの産業社会実現のためにも鉄道の普及、資本の調達、自由貿易、産業教育などが必要であると痛感した。帰国後、コレージュ=ド=フランス教授となったが、おりから1851年にルイ=ナポレオンがクーデタで実権を握ると、多くの教授が独裁権力の出現を非難する中、ルイ=ナポレオン支持を表明し、それが契機となってその政権に参画することとなった。その後、彼はナポレオン3世の内政の柱である産業化政策の立案に参画していくが、その中で特に重要なのがパリ万国博覧会の開催と1860年1月の英仏通商条約の締結であった。 → フランスの産業革命

1855年のパリ万博 ナポレオン3世の栄光

 ナポレオン3世は、帝政の基盤を強固なものにするために、民衆の支持を必要としていた。1851年ロンドン万国博の成功はナポレオン3世を強く刺激し、彼は「帝国の栄光という夢で国民を恍惚とさせること」の必要を直感的に感じ取り、それがミシェル=シュヴァリエに代表されるサン=シモン主義者の産業社会実現の夢と合致して、パリ万国博覧会が実施されることになったと言える。この第1回のパリ万博は、パレ=ランデュストリ(産業宮殿)を本会場に1855年5月に開催された。
 しかし、クリミア戦争の影響などで準備が遅れ、開会式の当日は施設の一部が未完成であった。ナポレオン3世は、開会式で型どおり演説したが、一回りしただけで会場をあとにした。ナポレオン3世は展示内容に明らかに不満をもった。来場者数もロンドン万博におよばなかったが、政治的には成功した。それはイギリスのヴィクトリア女王夫妻が、クリミア戦争での協力のお礼を兼ねてパリ万博に来場したことであり、それをホストとして迎えたことによってナポレオン3世はフランスの皇帝として国際的に認知されたのだった。また、産業機械の展示は実際に動かして見せたり、生活関連展示を多くしたり、サン=シモン主義の理念を実現する工夫は至るところに見られた。それらの展示を通じて産業教育や自由貿易の必要性を認識させることが彼らの目標であったが、民衆に産業発展が生活向上に結びつくことを無意識のうちにすり込んでいく効果は十分にあった。それが1860年の英仏通商条約締結による自由貿易の実現に結びついた。
 1855年パリ万博に合わせて美術展が開催されることになったがクールベの「画家のアトリエ」は出展を拒否された。社会性のある内容が当局の忌避にあったようだ。反発したクールベは会場前で別に個展を開いた。これが画家の個展の最初だという。

1867年のパリ万博「サン=シモンの鉄の夢」

 シュヴァリエとル=プルーらは、サン=シモン主義のユートピアの実現を目指し、1867年のパリ万国博覧会を準備した。メイン会場はシャン=ド=マルスの丘に、巨大な楕円形の展示場が設けられ、テーマは同心円状に、国と地域は放射線状に配置され、産業の象徴でもある鉄と鉄鋼で造られた。まさにそれは「サン=シモンの鉄の夢」の実現であった。同時に宇宙と社会の縮図というコンセプトになっており、見学者は一体化した世界を実感できるしくみになっていた。会場の周囲のレストランではボルドーのワインが評判を呼び(フランスがワイン輸出国としての名声が高まったのもこのときからである)、ドイツのビールも好評でフランス人にもビールを飲む習慣が始まった。またトルコのコーヒーや中国の茶などを味わうことができた。機械ギャラリーでは工業国が競って巨大な機関車や大砲を展示し、電信、ミシン、織機などの機械が実演つきで並べられた。

67年パリ万博のエキゾチズム

 メイン会場の周囲の公園には各国のパビリオンが建設された。51年のロンドン、55年のパリは万国といいながら実態はヨーロッパ諸国に過ぎなかったが、67年パリ万国博覧会は、中近東、アジア、ラテンアメリカ諸国も参加し、名実ともに万国博覧会となった。日本は幕末の政治情勢が深刻であったが、薩摩・長州がイギリスの支援を受けていたのに対して幕府はフランスと結んでいたので、その要請を受けて展示を行い、将軍の名代として徳川昭武を使節とする代表団を派遣した。

Episode 見世物としての日本娘

 各国パビリオンはさながら人種博覧会の観を呈した。江戸幕府は、浅草の商人瑞穂屋卯三郎が「水茶屋」を造り、柳橋の芸者かね、すみ、さとの三人が「髪は桃割れ、友禅縮緬の振袖に丸帯を締め、長いキセルで煙草盆の火をつけて煙草を吸ったり、手まりをついたり、客が望めばリキュールそっくりの味醂酒のお酌をしたり、茶を饗したりした」他にチョンマゲの男と作男姿の男二人が農作業をして見せていた。
<以上、記述はすべて鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会 -サン=シモンの鉄の夢』1992 小学館文庫版 に拠った。同書にはこのほかにもさまざまな展示を絵入りで紹介しているだけでなく、サン=シモン主義の理念とパリ万博についておもしろ分析を加えているので参考になる。>

浮世絵と印象派

 なお、この1867年の第2回パリ万博で日本の幕府の出展の中に浮世絵があった。
(引用)その独特な表現法はフランスの画家たちに多大なカルチャーショックを与え、ジャポニズム(日本趣味・日本心酔のこと)が一大ムーブメントとなります。浮世絵の特色は、簡潔なフォルムや明瞭な輪郭、平面的で鮮やかな色使い、そして独特の遠近法です。これらは、それまでの西洋美術では否定的にとらえられていた表現法ばかりでした。だからこそ画家たちは衝撃を受け、この未知なる表現法から強烈なインスピレーションを与えられたのです。<木村泰司『名画の言い分』2011 ちくま文庫 p.261>
 浮世絵から刺激を受けた画家の中から、1874年、パリで,モネ、ドガ、ルノワールらが、第1回のグループ展を開き、それが印象派の旗挙げとなった。
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鹿島茂
『パリ万国博覧会
-サン=シモンの鉄の夢』
2022 講談社学術文庫