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スダンの戦い

普仏戦争でナポレオン3世が捕虜となった1870年9月の戦闘。フランスの敗北、第二帝政の崩壊を決定づけた。

 スダン(Sedan セダンとも表記する)はフランスの東部、ドイツとの国境に近い町。1870年9月2日、普仏戦争の最後の戦闘が行われ、フランス皇帝ナポレオン3世プロイセン王国軍の捕虜となり、その結果パリで民衆が蜂起して第二帝政は崩壊し、第三共和政が成立する。
 1870年7月、普仏戦争が始まるとナポレオン3世は皇后ウージェニーを摂政としてパリに残し、自ら14歳の皇太子と共に前線に出て指揮を執った。しかし、ナポレオン3世自身は持病の膀胱炎が悪化していて排尿もままならず、軍隊の士気も上がらなかった。ナポレオン3世はメッスで指揮にあたったがフランス軍は8月6日の戦闘で大敗し、アルザスとロレーヌを占領され、早くもメッスからシャロンに後退した。皇帝と将軍たちはパリ防衛のために退却を決定し、ナポレオン3世はその方針をパリのウージェニー皇后に打電した。しかしこのまま皇帝がパリに戻れば暴動が起きることを心配した皇后は、後退に反対し進撃を要求、皇帝はそれを容れて反撃を試みることにした。この時点では兵力はまだ余力があったので、皇后の口出しに応じていなければ勝機はあったかもしれない。パリ帰還を皇后に拒否された皇帝はやむなく反撃に移ったが、スダン要塞に入ったところで敵に包囲されてしまった。

皇帝、捕虜となる

 9月1日、プロイセン軍は4方の山頂にすえたクルップ砲で猛烈な砲撃を開始、フランス軍のマクマホン元帥も負傷した。指揮を委ねられたデュクロ将軍は撤退を決意したが、そこに到着したウージェニー皇后の親書を携えた使者は退却は認められないと伝えた。やむなくフランス軍は包囲網を破るためにアフリカ騎兵に突撃を命じたが、プロイセン軍の一斉射撃のために次々と倒された。「この間、ナポレオン3世は兵を励まし、砲弾が雨あられと飛んでくる前線に騎馬姿で立ちつくした。その姿は、明らかに最後の死に場所を求めているように見えた。ヴィンフェン将軍は一か八かの策として、皇帝に全軍の先頭に立って突撃を命じていただきたいと進言した。こうすれば、間違いなく皇帝は命を落とすだろうが、名誉は救われ、体制は存続するというのである。だが、皇帝はしばらく考えた後、こう言った。“突撃すればさらに一万いや二万人の命が失われるだろう。突撃は無駄だ。私には兵士を殺す権利はない” 将軍が去ったあと、ナポレオン3世はしばし躊躇した。そして、だれに相談することもなく、最後の決断を下した。セダン要塞に白旗が掲げられたのである。<鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫版 p.564>
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鹿島茂
『怪帝ナポレオン3世』
2004 講談社学術文庫