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ザメンホフ

ロシア支配下にあったポーランドのユダヤ人で、1887年に人工国際語エスペラントを創作し、その後もその普及と改良に努めた。

ザメンホフ
L.L.Zamenhof (1859-1917)
人工国際語エスペラントをつくったザメンホフ(1859-1917)は、ポーランド、当時はロシア領リトアニアに属していたビャウィストクに、ユダヤ人の外国語教師の子として生まれた。ワルシャワの古典学校で学びながら、19歳で早くも世界語の試作を完成した。その後、モスクワとワルシャワの医科大学に学び、眼科医となる。眼科医として開業しながら世界語の完成を目指し、1887年にエスペラント(希望の意味)の筆名で『国際語』を発表した。彼の創作した人工国際語は徐々に反響を広げ、彼が筆名として使った「エスペラント」が言語名として知られるようになった。ザメンホフはワルシャワなどで貧民を相手にした眼科医として苦しい生活を続けていた。その間、エスペラントは、他の人工国際語に比べて優れていることが知られるようになり、ロシア、ドイツ、フランスにも支持者が広がっていったが、一方でロシアでは厳しい検閲を受けて発禁になるなど、弾圧も始まった。

人工国際語としての成功と迫害

 1905年、フランスのブーローニュで第1回の万国エスペラント大会が開催され、多数のエスペランチストが集まって大きな反響を呼び、エスペラントの規準を作る言語委員会も発足した。その後、エスペラント大会はヨーロッパ各地で毎年開催され、1906年には日本にもエスペラント協会が設立された。しかし、日露戦争後のロシアではユダヤ人に対する大規模な迫害(ポグロム)が起こり、ザメンホフにも危機が迫った。ザメンホフは匿名で『人類人宣言』を発表し、民族対立を克服するための世界共通語の普及を強く訴えた。

エスペラントの普及

 エスペラント運動はロシアなどでの弾圧にかかわらず、ヨーロッパ各地で盛んになっていったが、1907年にはその改良を主張する分派も登場し、対立も生じた。ザメンホフは、エスペラントを単なる便利な共通語とは考えておらず、人間の心を表現することのできる言語であると考えていたので、聖書やトルストイなどの文学作品を対訳し、みずからエスペラントで多くの詩を創作してその証明とした。1908年にはザメンホフの主流が万国エスペラント協会を設立したが、1912年の第8回クラクフ大会では彼は個人的な栄誉をすべて辞退して、一切の公職から引退した。
 民族間の対立解消という彼の願いは、1914年、第一次世界大戦の勃発によって踏みにじられ、ワルシャワもドイツ軍に占領されるという苦境に立たされたが、それでも『旧約聖書』を完訳し、人類人大会の計画を進めるなど活動を続けた。しかし病弱であったザメンホフは、長年の苦労のため衰弱し、1917年4月14日、ワルシャワで死去した。その翌年、第一次世界大戦は終結し、ポーランドの独立が実現する。<以上、伊東三郎『エスペラントの父―ザメンホフ』1950 岩波新書 による。上の肖像も同じ。>

エスペラント創作の背景

 ザメンホフが生まれたビャウィストック(英語読みはビリャストック)は現在はポーランドであるが当時はロシア領のリトアニアに属していた。そこは「主な言語が4種、くわしくみれば12~13種の言語」に分かれているという状態であった。
(引用)ビリャストックの住民の七割はユダヤ人ですから商店街や裏町では近代ユダヤ語が使われ、住民の二割はポーランド人でポーランド語を使い、それは少数の貴族と多くは労働者です。あと一割はドイツ人、ロシア人そのほかです。ドイツ人は商人や技術者でドイツ人街があり、ドイツ語を話します。ロシア人は皇帝政府の役人と軍人兵士がおもでした。これは人口の割合は少ないが公用標準語としてロシア語をみなの上に押し通していました。近くの村から出てくる百姓たちは北のものはリトワニア語、南のものは白ルテチア語をつかい、ラシャの取引などで入りこんでくるタタール人の間ではトルコ系の言語がつかわれ、ここをよく通るジプシーはまた別の言語をもっています。そのほかポーランド人の上流の社交や学校ではフランス語がつかわれることも多かったのです。また、これらの人種はそれぞれ別の宗教と教会をもち、そこではまたちがった言語がつかわれます。ユダヤ人はユダヤ教の会堂でヘブライ語を、ポーランド人は天主教(カトリック)の教会でいのりや歌にラテン語を、ロシア人はギリシア正教寺院でスラヴィーナ語の聖典を読み、ドイツ人は新教の教会でドイツ語をつかい、タタール人はイスラーム教を信仰してアラビア語の経典をもっています。<伊東三郎『エスペラントの父―ザメンホフ』1950 岩波新書 p.6>

ザメンホフの決心

(引用)ザメンホフの生まれた町ビヤリストクではロシア人、ポーランド人、ドイツ人そしてユダヤ人が一緒に住んでいたのだが、これらの民族が互いに憎しみあっていたことで、ラザル(ザメンホフ)は幼いときから胸を痛めた。彼自身、ロシアのエスペランチストN・ボロフコにあてた有名な手紙のなかで、エスペラント語の由来について書いている。「どこよりもこういう町に住んでいますと、生まれつき感受性の強い人間は言語のちがう不幸の重圧を感じ、それが一つの家庭であるべき人類をばらばらにして、敵対するいくつもの部分に分けている唯一の、でなければ少なくとも主な原因である、という確信を事あるごとに抱くようになります。」そこで、とザメンホフは説明しているのだが、彼は決心したのである。「大人になったら、きっとこの悪をなくしてやろう」と。<ウルリッヒ=リンス/栗栖継訳『危険な言語―迫害の中のエスペラント―』1975 岩波新書 p.3>

ナチスによる弾圧

 エスペラントとはその発生時期おいても、ポーランドを支配していたロシアのツァーリ政府にとって「危険な言語」として取り締まりの対象とされたが、第一次世界大戦後の運動の盛り上がりが、労働者の国際主義と結びついて「プロレタリア解放の言語」として広がっていくと、各国の帝国主義政府にとっても弾圧すべき運動とされるようになった。中でもナチス=ドイツではエスペラントはユダヤ人の陰謀と捉えられ、その政権獲得後は活動を禁止され、書物は発禁とされた。ザメンホフの子どもたちはいずれも熱心なエスペランチストになったが、長男アダムは1940年1月、ワルシャワ郊外でナチスに捕らえられて銃殺され、ソフィヤとリディヤはそれぞれ1942年8月と10月、ワルシャワ近郊のトレブリンカ強制収容所でガス殺されたという。<ウルリッヒ=リンス 同上 p.2>
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書籍案内

伊東三郎
『エスペラントの父―
ザメンホフ』
1950 岩波新書
ウルリッヒ・リンス
/栗栖継訳
『危険な言語―迫害のなかのエスペラント』
1975年 岩波新書