印刷 | 通常画面に戻る |

グリム兄弟

19世紀前半、童話や伝説の収集などによってドイツ国民意識の高揚に努めた文学者。『グリム童話』で著名である。

 彼らが収集した童話や伝承の数々は『グリム童話』として世界中に知られており、ロマン主義文学の中に含まれている。その中の“白雪姫”“ヘンゼルとグレーテル”“赤ずきん”などの話は日本だけでなく、世界中の子どもたちに知られているが、兄弟がこの童話集を編纂したのには同時のドイツの置かれた状況が大きな背景となっている。ナポレオンによって蹂躙されたドイツが、その支配から解放されてドイツ連邦という連合体を作ったにもかからず、各国の君主がバラバラに支配し、ドイツ人の統一国家としての体をなしていなかった。それがナポレオン戦争ではフランスに敗れ、工業化ではイギリスに大きく後れを取っている理由であると考えた人びと(フンボルトやフィヒテ)は、ドイツ民族としての連帯感を作り出しドイツの統一を実現しようと運動を開始した。グリム兄弟は文学者・学者としてその先頭に立ち、民話や童話の収集によってドイツ人としての自覚と誇りを獲得することに務めたのだった。 → ドイツ

『グリム童話』の編纂とその時代

 兄のヤーコプ=グリム(1785-1863)と弟のヴィルヘルム=グリム(1786-1859)はドイツのヘッセンに生まれ、ともにマールブルク大学で法律学を学び、ゲッティンゲン大学に奉職した。兄弟が童話を集め出したのは1806年で、その年ナポレオンによってライン左岸がフランスに併合され、兄弟の住んでいたカッセルもフランス軍に占領された。『グリム童話集』第1巻は1812年に出版されたが、その年にナポレオン軍はモスクワ遠征で敗れ、退却するフランス軍をプロイセン・オーストリア・ロシア軍が追撃した。ナポレオン敗北後のウィーン会議でドイツ連邦が生まれた1815年に『グリム童話集』第2巻が刊行された。1837年のハノーファー国王が自由主義的憲法を廃棄したことに抗議した「ゲッティンゲン大学七教授事件」に連座して罷免され、1840年からはベルリン大学に招かれ共に教授となった。1848年の三月革命を受けて5月にフランクフルト国民議会が召集されると、兄ヤーコプは領邦を代表する議員に選ばれ、憲法草案を作成し、第一条で「すべてのドイツ人は自由である。ドイツの土地は隷属を許さない。」とすることを主張した。しかしその提案は否決され、会議に失望したグリムは10月に議員を辞職した。ドイツ統一問題は暗礁に乗り上げ、国民会議は崩壊し、ドイツ統一と自由の実現は遠のいたが、グリム兄弟は民話・童話に続いてドイツ法の研究や『ドイツ語辞典』の編纂を通じてドイツ民族の統一をめざす仕事を続けた。『童話集』にも何度も手を入れ、最終版は1857年に刊行された。

Episode グリム童話は残酷?

 第二次世界大戦後、『グリム童話』の残酷性が西ドイツで問題となった。例えば“ヘンデルとグレーテル”ではグレーテルは魔女をパン焼き釜の中へ突き落として焼き殺してしまう。その他に、真っ赤に焼いた鉄の靴を履かせて死ぬまで踊らせたり(白雪姫)、眼をえぐり取ったり、女を裸にして内側に釘を打った樽に入れて馬に引きずらせる(がちょう番の娘)などが、ナチスの強制収容所に見られるドイツ人の残酷さにつながっているという指摘がなされ、当時のイギリス占領軍がこの問題を取り上げ、1948年8月には「とうぶんのあいだ昔話集の出版を禁止する」という命令を出している。また秩序、服従、男性優位、他民族(ユダヤ人)排斥などのドイツ=ナショナリズムの特質がグリム童話に潜在している、という指摘もある。
 それらのグリム童話論に対して、野村泫(ひろし)氏は、童話・民話は文学の原型であり、人間の無意識や、社会の歴史的時事が反映したものであると論じ反論している。またグリム童話が編纂されたドイツの状況を見るべきこと、さらに最近の研究でグリムの素材とした話がドイツのものだけではなく、フランスから入ってきた話も多いことが明らかになったことなどを指摘している。<野村泫『グリム童話 子どもに聞かせて良いか?』1989 ちくま学芸文庫版>  
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

野村泫
『グリム童話 子どもに聞かせて良いか?』
1989 ちくま学芸文庫版