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ディーゼル

19世紀末、ドイツで内燃機関の改良をすすめ、1897年にディーゼル機関の実用化に成功した。

 ディーゼルはパリ生まれのドイツ人。1892年に内燃機関を発明した。内燃機関はガスが使われていたが、ガスが手に入りにくいところでは不便だったので、1873年にフィラデルフィアのブレイトンが、石油のしみこんだ吸収剤を通した空気をシリンダーへ送り燃焼させる機関を発明した。石油機関の決定的改良を行ったのがディーゼルだった。彼は熱の無駄を無くすために、燃料を少しずつ注いで最高温度を調節し、排気の温度を低くしようとして、一定量の石油が圧縮空気にふれると自然に着火できるようにした。ディーゼル=エンジンは潜水艦の動力としても注目され、第一次世界大戦が近づくとドイツはその特許を国家に提供するようディーゼルに迫ったが、彼はそれを拒否し、イギリスに協力しようとした。ディーゼルは1913年になぞの死を遂げる。 → 自動車  潜水艦

参考 ディーゼルの死をめぐる二説

 ディーゼルは1913年、不審な死を遂げた。その死については、次のような対立する見方がある。どちらが正しいのかにわかには判断できないので両説をあげておく。
ディーゼル自殺説 1897年、ミュンヘン大学で行われた公開実験でディーゼル・エンジンの実用性が承認された。しかし、このエンジンには高級な工作が必要で、それを扱える工場はまだなかった。そのため発明者ディーゼルが経済的に報われることも薄かった。ディーゼルは苦境に陥り、土地投機などにも手を出したが失敗し、破産してしまった。加えて持病の頭痛の他に痛風にも悩まされた。発明者としての名声は上がり、世界各国の発明家との交遊も広がったが、元来、気難しく、交遊はしっくりいかなかったらしい。エジソンとの場合も、さっぱり気分がかみ合わず、気まずいまま別れたという。そして、1913年の初秋、イギリスの蒸気タービンの発明者パーソンズの招待で出かける途中、イギリス海峡に投身自殺してしまった。遺書はなく、自殺かどうか疑問視されたが、後で調べると、20万ドルに上る借金も残っていたとか。今日では自殺と言うことが公認されている。<富塚清『動力の歴史』(初版『動力物語』1980 岩波新書)増補新訂版 2002 三樹書房 p.152>
ディーゼル謀殺説 ディーゼル・エンジンを発明したのはドイツ人のルドルフ=ディーゼルである。ディーゼルは職人の息子として生まれ、少年時代を貧困のうちに暮らし、ミュンヘン工科大学を大学始まって以来の成績で卒業した。学生時代から内燃機関の研究に取り組んだ彼は、25歳の時、高価なガソリンの代わりに安価な軽油や重油を燃料とするエンジンを発明し、98年に世界初のディーゼル・エンジンを完成させて特許を取った。ディーゼルは自分の発明が世界の人々の利益になるよう、適正な特許料を払えば誰でも新技術を利用できるようにした。またイギリスにも自分の会社を設立した。1900年代からイギリスとの間で激しい建艦競争を行っていたドイツ海軍は、潜水艦の実用化を急ぎ、燃料効率の良いディーゼル・エンジンを搭載することを考え、ディーゼルに対して戦争のために役立つ彼の特許すべてを国家に提供するよう要請した。しかしディーゼルはその要請を拒否した。1913年の秋、イギリス海軍がディーゼルに新型エンジンについて話を聞きたいと申し入れると、ディーゼルは同意してロンドンに向かった。ところが9月29日夜、アントワープ港の船中からディーゼルは忽然と姿を消し、2週間後にオランダのトロール船にその遺体がひっかかった。後頭部に鈍器で殴られた傷跡があり、明らかに他殺であったが、二人の同行者は罪に問われることはなかった。状況からはディーゼルの”利敵行為”をドイツ秘密警察が阻止するため、同行の二人に殺害させたものであろう。<折口透『自動車の世紀』岩波新書 1997 p.82-88>
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書籍案内

富塚清
『動力の歴史』
2002 三樹書房
初版は『動力物語』
1980 岩波新書

折口透
『自動車の世紀』
1997 岩波新書