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アーガー=ムハンマド

1796年にイランを統一したトルコ系カージャール朝の創始者。

 アーガー=ムハンマドはイランのトルコ系(トルクメン)カージャール族の族長であったが、ザンド朝(ゼンド朝)のキャリーム=ハーン=ザンドの宮廷に捕虜となっていた。キャリーム=ハーンが亡くなったときに脱走して、故郷のカスピ海沿岸マーザーンダラーンに逃れ、イラン北部の部族の支持を受け、1779年にカージャール朝を創始した。

カージャール朝によるイラン統一

 アーガー=ムハンマドは、イスファハーン攻略に続いて1786年、テヘランに入って都とし、さらに1794年にザンド朝の都シーラーズを征服し、ザンド朝を滅ぼした。1795年にアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアに侵攻、1796年アフシャール朝を滅ぼし、テヘランで即位し「王の中の王(シャーハンシャー)」を名乗り、イランを統一した。こうしてトルコ系でありながらイランを統一したアーガー=ムハンマドであったが、直後の1797年、カフカス遠征中に、自らが死刑を宣告した召使いによって暗殺された。

Episode 残虐な「王の中の王」

 アーガー=ムハンマドは、ザンド朝を滅ぼしたとき、ケルマーンに逃れたザンド朝のルトゥヒー=アリー=ハーンをとらえ同地の男子2万人とともに目を潰したいう。このアーガー=ムハンマドの残虐行為によって、カージャール朝時代を通じ、ケルマーンでは怨嗟の声が強かった。さらにアーガー=ムハンマドはグルジアを征服したときは、グルジア人数千人を奴隷にしたと伝えられる。アーガー=ムハンマド以後のカージャール朝の歴代のシャーも暴君が多く、その一方でロシア、イギリスという外国勢力からイランを守ることができず、おまけに重税を課したので、この王朝がトルコ系であることも加わって現在のイラン人の評価は低い。<宮田律『物語イランの歴史』2002 中公新書 p.99>
 トルコ系の支配者であるカージャール朝のもとで、イランは統一を回復し、その後、20世紀の1925年まで、約150年間、存続する。しかし、19世紀中頃からロシアの南下、隣接するインドから勢力を伸ばそうとするイギリスという帝国主義列強によって植民地化の危機が迫ってくる。
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宮田律
『物語イランの歴史』
2002 中公新書