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纒足

てんそく。中国人女性が幼少時に足首から下を緊縛して成長を止める風習。10世紀末頃に始まり、太平天国では禁止されたが、20世紀初めまで続いた。

 纏足は中国の女性に見られた風習で、三、四歳の時に足を緊縛して成長を止めてしまうということ。足指を曲げて足裏に縛り付けたままにする。いつ頃から始まったかわからないところもあるが、ほぼ五代十国末から北宋の時代に、宮廷の後宮で始まったらしい。の時代には広く流行したが、の支配者となった満州族には纏足の習慣がなかったので、たびたび禁止令を出している。しかし、一向に少なくならず、20世紀はじめまで続いた。清では庶民の間でも纏足は女性がよい結婚ができる条件と考えられ、女の子が生まれると親がすすんで纏足にした。纏足をした女性のなよなよとした有様が、女性の美しさの一つとされたようだ。

纏足の禁止

 洪秀全の起こした太平天国では、客家にその習慣がなかったこと、キリスト教の理念もあったことからか、纏足を禁止した。もっとも本当の理由は、太平天国では男女は別な集団生活を送ったというし、平等観よりも女性を兵士や労働力として期待したためというのが本当らしい)。また清の西太后は戊戌政変後のいわゆる光緒新政でも纏足禁止令を出し、近代化をアピールしている。中華民国では女性の纏足からの解放が近代化のしるしとして強く叫ばれるようになり、ようやく1930年代になってほとんど見られなくなった。<岡本隆三『纏足物語』1986 東方書店 東方選書>
 清朝末期の義和団事変の後、急速に西洋化に傾いた西太后が、1901年からはじめた清朝最後の改革である光緒新政において、ようやく纏足禁止令が出されたが、すでに纏足を施していた女性ではそのままにしたものが多かったようだ。

纏足の苦しみ

 1990年代初めにベストセラーになった、中国人女性ユン=チアンが、祖母・母と自分に及ぶ女性の体験を綴った『ワイルド・スワン』のはじめのところに、纏足をしていた祖母の話が出てくる。
(引用)祖母は美しい人だった。卵形の顔、ばら色の頬、輝くような肌、長くてつややかな黒髪は、太い三つ編みにして腰のあたりまであった。・・・だが何といっても、祖母の最大の強みは纏足した小さな足であった。中国語で、これを「三寸金蓮」と呼ぶ。十センチ足らずの金の蓮というわけだ。中国では昔から、「春風にそよぐ柔らかな柳のような」歩き方が美しいとされてきた。纏足した女性がおぼつかない足取りで歩く姿は、男性をエロティックな気分にさせるという。危なっかしいようすが、見る者に守ってやりたいという気分を起こさせるのだろう。
 祖母は、二歳のときに纏足をはじめた。祖母の母親(彼女自身も纏足されて育った)は、まず祖母の足の親指をのぞく四本の指をぜんぶ足の裏側へ折り込むように曲げ、六メートルほどの白い布でぐるぐる巻きにした。そして、上から大きな石をのせて、足の甲をつぶした。祖母は、激痛に大声を上げ、おかあさんやめて、と叫んだ。母親は、娘の口に布を押しこんで声を封じた。祖母は、あまりの痛みに何度も気を失ったという。・・・
 当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑の言葉を口にする。母親のなかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間の非難をあびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである。<ユン=チアン(張戒)/土屋京子訳『ワイルド・スワン』上 1993 講談社刊 p.19-20>
 著者の祖母玉芳は清朝末期の1909年に生まれ、北洋軍閥政府の警視総監の妾となり、戦後の1969年まで生きていた。中華民国成立後の、1917年に生まれたその妹は纏足をしなかったというから、ほぼ纏足の習慣の最後の世代だと思われる。20世紀後半でも纏足の女性がいたのだ。
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書籍案内
纏足 表紙
岡本隆三
『纏足物語』
1986 東方選書

ユン=チアン/土屋京子訳
『ワイルド・スワン』
上中下 講談社文庫