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国会/ドゥーマ

第1次ロシア革命に際しニコライ2世の十月宣言で開催が承認された国会。

 1905年10月、第1次ロシア革命に際して、窮地に立ったニコライ2世は、十月宣言を発し、集会・結社の自由などとともに国会の開設とその選挙による選出を約束した。この国会をロシア語でドゥーマといった。ドゥーマ(国家ドゥーマとも言う)に立法権を与えたので、それを牽制する役割として国家評議会を勅撰議員から成る上院として改組した。そこでドゥーマは下院と言うことも出来る。ドゥーマの開設と同時に革命運動の取締に乗り出し、第1次ロシア革命は急速に沈静化した。

ドゥーマの実際

 1906年2~3月に第1回のドゥーマ議員の選挙が行われた。選挙は財産ごとの制限選挙で、議員に選出されたのは資本家(ブルジョアジー)と貴族・地主などの保守派である立憲民主党(カデット)が第1党となった。ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルはいずれも選挙をボイコットした。
 第1回のドゥーマでは、政府は土地問題での審議を許さず、議員が反発したので2ヶ月で解散させられた。1907年2月に開催された第2回ドゥーマでも政府と議員が対立したため、首相ストルイピンはドゥーマを解散してあらたな選挙法を公布し、11月に開会された第3回ドゥーマでようやく政府を支持する保守派が多数を占めることとなった。この第3回ドゥーマでストルイピンが提案したミールの解体が可決され、決定した。
 ドゥーマは1906年の第1回から17年の第2次ロシア革命までの間、4回開催され、ツァーリ専制には一定の制約となったが、実質的に貴族・地主層が支配することとなり、労働者・市民の要求や声は全く反映されないものであった。
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