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膠州湾

1898年、ドイツが清から租借した山東半島の南側にある湾。その入口に青島港を建設した。

 こうしゅうわん。中国の山東半島の南側にあり、天然の良港であった。1897年9月、山東省でドイツ人宣教師殺害事件が起こると、11月、ドイツ政府は賠償を要求して艦隊を膠州湾に派遣、占領した。翌1898年3月、ドイツは清朝政府との間で膠州湾租借条約を結び、山東半島を勢力下に置いた。この動きに刺激された列強は、1898年、次々と清朝政府に迫り、それぞれ租借地を獲得するという形で中国分割を行った。
 ドイツは膠州湾を99年間の租借とし、湾の入口に青島(チンタオ)港を建設して、ドイツ東洋艦隊の拠点とした。これらは19世紀末期に顕著になった、資本主義先進国の帝国主義政策による世界分割の一つであり、現地の民衆を犠牲にしながら本国の資本主義経営を発展させようとしたものであり、同時にこのような列強の侵略行為は列強間の利害の対立を先鋭化し、世界戦争への破滅の道を進むことを意味していた。

日本軍の青島占領

 第一次世界大戦が起こると、日本は日英同盟にもとづいて参戦し、青島を占領した。日本はさらに1915年1月、二十一カ条要求を中国政府に突きつけ、膠州湾の還付を条件に山東省のドイツ権益の継承を強要した。パリ講和会議では中国の抗議にもかかわらず、日本の主張が認められたため、五・四運動など激しい反対運動が起こった。日本の中国大陸進出は、次第にアメリカの警戒するところとなり、1922年のワシントン会議では日本に迫り、九カ国条約によって日本は膠州湾租借地など山東権益を中国に返還した。 → 山東問題
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