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バネルジー

1883年、全インド国民協議会を設立。後に国民会議派と合同し、穏健派となる。

 サレンドラナート=バネルジー(バナジーと表記する場合もある)は1869年、21歳の時イギリスに渡り、インド高等文官試験に合格したが年齢の問題で資格を抹消された。ベンガル地方で陳情運動が起こり、ようやく文官として治安副判事に任命されたが、今度はイギリス人の上司と対立したため、不当な理由で解任された。これを機にインド各地でインド人に対する差別待遇に抗議する運動を始めた。1876年には「インド人協会」を設立し、イギリスの支配に対するインドの民族運動の最初の組織的運動を開始した。

降伏しない人

 当時植民地インドは、イギリスによる収奪と飢饉のため、深刻な凶作に襲われていたが、イギリスはその惨状を尻目に1877年にヴィクトリア女王をインド皇帝とする「インド帝国」の成立を宣言し、華々しい式典を強行した。バネルジーは新聞を発行してインド人の惨状を訴え、自治の必要を主張し、全国を遊説、その名のサレンドラナートをもじって“降服しない人”surrender not とあだ名された。1883年12月、バネルジーの提唱で、インド人協会を母胎として「全インド国民協議会」第1回大会がカルカッタで開催された。協議会には宗教の別なく、約100人の代議員が参加し、インドの現状に関する真摯な議論を展開した。

降伏するなよバネルジーさん

 バネルジーの立場は、インドの独立を拙速に要求するのではなく、イギリスの支配を認めた上でインド人に対する待遇の改善を要求しようという、穏健で漸進的なものとなっていった。1885年、国民会議派が結成されると、翌年の第2回大会でバネルジーらの全インド国民協議会も合流し、以後は国民会議派のメンバーとして活動する。しかしその穏健な主張は、急進派のティラクらと対立するようになり、1906年のベンガル分割令反対の闘いでは、surrender not という彼のあだ名は“降服するなよバネルジーさん”という意味で使われた。
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