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対ソ干渉戦争

ロシア革命に対してイギリス・フランス・アメリカ・日本など列強が反革命勢力を支援する軍隊を派遣し、革命を妨害しようとした戦争。1918年3月の英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、4月には日本軍が単独でウラジヴォストークに陸戦隊を上陸させた。8月のチェコ兵救出を口実としたアメリカ提唱によるシベリア出兵が本格化し、特に日本は7万以上の兵力を投入した。しかし、反革命軍は1920年までにはいずれも鎮圧され、干渉軍も撤退、日本のみが1922年(北樺太では1925年)まで出兵を継続した。

 第2次ロシア革命でロシア帝国が倒れ、ボリシェヴィキ独裁政権が樹立され、レーニン平和についての布告によって即時停戦、無償金・無併合による講和が提唱され、第一次世界大戦からの離脱が明らかになったことは、帝国主義諸国に大きな衝撃を与えた。イギリス・フランス・アメリカ・日本は、ロシア革命で登場したボリシェヴィキ政権から資本主義体制を防衛する必要があると考え、さらに特に英仏にとってはドイツが東部戦線で講和し、全力を西部戦線に投入することを避けるため、ドイツとソヴィエト政権の講和を阻止する必要があった。

ロシア革命勃発に対する連合国の対応

 1917年11月7日(露暦10月25日)に「土地とパンと平和」を目指したロシアの革命によって登場したボリシェヴィキ政権は、その翌11月8日、第2回全露ソヴィエト大会を開催、「平和についての布告」を決議した。この決議は直ちに実行に移され11月21日、中央委員会はロシア軍最高指揮官ドホーニンに対してただちにドイツ、オーストリア軍との休戦交渉に入ることを命じ、同日、外務人民委員トロツキーはペトログラード駐在の連合国外交代表に対し、新政権の成立を正式に通告し、かつ即時休戦、講和交渉の即刻開始の正式な提案と認めるよう要望した。さらに翌日、トロツキーは帝政ロシアの締結した秘密条約を公表する声明を出した。これら一連の動きに深刻な衝撃を受けた連合国指導者は、11月29日からパリで連合国会議、12月1日からは最高軍事会議を開き、新事態への対応を協議した。
 パリ連合国会議は、とくに戦争継続のための新たな戦争目的の模索、ソヴィエト政権がドイツと単独和平をした場合の対応について協議し、異論があったものの、ボリシェヴィキ政権の不承認と、ソヴィエト政府の和平提案への拒否で一致した。ソヴィエト政府のドイツの単独和平交渉に対しては、フランスのクレマンソーらが強硬に反対した。そして、独ソ休戦が実現した場合の連合国のとるべき措置として、反過激派(当時、ボリシェヴィキは過激派と呼ばれていた)グループ援助、さらに連合国によるシベリア軍事干渉のプランが話し合われた。この最初のシベリア出兵プランはフランス代表のフォッシュ将軍によって出されたが、ここではイギリス・アメリカ・日本はかえってソヴィエト政権をドイツとの提携に追いやる怖れがあるとして反対した。結局、パリ連合国会議は革命干渉については結論を得られず散会した。<細谷千博『シベリア出兵の史的研究』2005 岩波現代文庫 p.11>

英仏秘密協定の成立

 1917年12月15日には独ソ休戦協定が成立、続いてブレスト=リトフスクで独ソ講和交渉が開始されるに及び、イギリス・フランスは対ソヴィエト政策の調整を迫られた。イギリスロイド=ジョージ戦時内閣は陸相と外務次官をパリに派遣し、フランスのクレマンソー首相らと会談を持ち、12月23日、「対露政策に関する覚書」で合意した。これは秘密協定とされ両国の対ソ政策を規定する重要文書であった。その内容のポイントは、ロシアの現状を、全ロシアの統一的政治権力は存在していないとし、対独戦争の勝利目的に役立つ限り、北部ロシアの事実上の政府(ボリシェヴィキ政権)とその他の「複数の政権」のいずれとも交渉を持ち、必要に応じて技術的、物質的援助をすることは内政干渉にあたらない、とするものであった。その上で、ウクライナ方面はフランスが、その他の南東方面はイギリスが受け持つと分担を定めた。同時に英仏の地理的分担が及ばないシベリアについては、アメリカと日本に派兵を要請するとで一致した。当初のシベリア出兵の名目は、ドイツとソヴィエト政権の講和により、ウラジヴォストークの戦略物資がドイツに渡る怖れがあるので、それを阻止するためアメリカ軍と日本軍によってシベリア鉄道を共同管理するというものであった。<細谷千博『同上』 p.15>

干渉戦争の開始

 1918年3月3日、ブレスト=リトフスク条約でソヴィエト=ロシアとドイツの講和が成立したことを受け、イギリス軍・フランス軍は北極海に面したムルマンスクに上陸、ドイツの侵入から軍需物資を守るためという口実で占領した。4月には日本軍が居留民保護を理由にウラジヴォストークに単独で陸戦隊を上陸させた。2ヶ月後にはイギリス、アメリカも続いた。7月にはイギリス・フランス・アメリカ軍がロシア北方の白海に面したアルハンゲリスクを占領した。

シベリア出兵

 列強の革命への干渉は互いに牽制し合い、必ずしもの行動歩調がとられていなかったが、1918年8月に入り、チェコ兵捕虜の救出を「大義名分」とした共同出兵をアメリカのウィルソン大統領が提唱してから本格化した。シベリア出兵は、アメリカ軍・日本軍を主体とし、イギリス軍・フランス軍・中国軍などが参加する多国籍軍の共同軍事行動として行われた。特に日本軍はアメリカとの合意事項を上回る7万以上の兵力を動員、反革命軍及びチェコ兵を支援する口実でボリシェヴィキのパルチザン(ゲリラ兵)と交戦した。

戦時共産主義

 革命への干渉は直接的出兵にとどまらず、反革命政権に対する軍事援助という形で盛んに行われた。これらは革命政権にとっての危機となったが、レーニンらボリシェヴィキ政権は戦時共産主義の非常手段によって「すべてを戦線に」という革命防衛の戦いを展開した。1918年1月には赤軍を創設、3月にはトロツキーが軍事人民委員となり、反革命勢力と列強の干渉軍への攻勢を強めた。

干渉戦争の転換

 1918年の夏から秋には、モスクワのソヴィエト政権が存続しているのは、政府自身の力によってというよりはむしろ、諸国が西部戦線で生死を賭した戦いに釘付けにされ、よそで起きていることに構ってはいられないという事態になっていたためであった。1918年11月のドイツの降伏とそれに続くドイツ革命の勃発は、干渉戦争の局面を転換させ、対独戦争に付属した軍事行動という口実は成り立たなくなり、アルハンゲリスクやシベリア、南ロシアで「反ボリシェヴィキ十字軍」に携わるロシア軍に対する支援として、公然と拡大された。

干渉軍の撤退

 しかし、干渉軍の兵士の中には、戦争への嫌気がさしていたことと、ソヴィエトの労働者政府への共感もあって戦闘意慾は弱かった。そればかりか、1919年4月にはオデッサのフランス軍艦で暴動が起こり、撤退を余儀なくされた。アルハンゲリスクとムルマンスクでは同様の暴動を未然に防ぐため、連合軍は徐々に撤退した。1919年の秋までにはウラジヴォストークに駐留する日本とアメリカの派遣軍を除いては、如何なる連合軍もロシアの地にとどまっていなかった。
 その代わり、西側連合国はボリシェヴィキに敵対している反革命政権である自称ロシア政府に対して軍需物資、軍事使節団をつぎこみ、支援した。しかし赤軍はそのころまでに装備は良くなかったものの実戦能力の高い戦闘部隊になっており、白軍はバラバラにたたくだけで地域の住民の支持を獲得することができず潰走状態となり、1920年の春までに壊滅した。<E.H.カー/塩川伸明訳『ロシア革命―レーニンからスターリンへ』1979 岩波現代文庫 2000刊 p.17-19>

日本軍の撤退

 日本軍のシベリア出兵ウラジヴォストークに上陸後、各地で赤軍とパルチザンとの戦闘を行い、各国が撤退した後も残留し、1920年5月にはニコライエフスク事件という悲劇も起こっている。日本軍は報復として北樺太に出兵した。日本のシベリア出兵の継続に対する国内外の批判が強まる中、ワシントン会議でのアメリカの圧力により1922年に撤退した。北樺太の駐兵は、1925年の日ソ基本条約で日ソ国交が開かれるまで続けた。日本軍のシベリア出兵は革命への干渉にも失敗し、巨額の出費と兵力を失う結果として終わった。
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書籍案内

E.H.カー/塩川伸明訳
『ロシア革命―レーニンからスターリンへ』
1979 初版
2000 岩波現代文庫刊

細谷千博
『シベリア出兵の史的研究』
2005 岩波現代新書
初版は1955 有斐閣

木村英亮
『ソ連の歴史 増補版』
1996 山川出版社