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全ロシア=ムスリム大会

1917年5月にモスクワで開催された中央アジアのイスラーム系民族の大会。民族自決権にもとずく共和国連邦の実現を求めた。

 ロシアの二月革命を受けて、1917年5月にモスクワで開催された、ロシア内のイスラーム系諸民族の全体会議。
(引用)分解したロシア帝国に住むムスリム諸民族・エスニック集団から、300人のウラマーを筆頭に各種団体の代表900人が大会に参加した。そこにはボリシェヴィキを除いて、カデットよりも右よりの保守派から社会主義者にいたるあらゆる政治的潮流が含まれていた。・・・ムスリム大会はアッラーへの祈りを捧げた後に、ペトログラード労兵代表ソヴェトのメンバーでもあったロシア・ムスリム臨時中央ビューロー議長ツァリコフの開会演説で幕を開けた。ツァリコフは・・・「無併合・無賠償」による講和とヨーロッパ、アジア、アフリカ諸民族の自決権を説いた。<山内昌之『スルタンガリエフの夢』1986 岩波現代文庫で再刊 2008 p.135> 以下、その要約

大会での決議内容

 全ロシア・ムスリム大会ではカザンの女性代表が提出した、男女の政治的権利の平等、複婚制・花嫁買取り金の廃止、未成年女子の結婚などの禁止を内容とする、女性の権利向上と男女平等をめざす提案が、一部のウラマーの反対を押し切って採択された。その他、8時間労働制、私的土地所有の禁止などの社会改革、民族語による初等教育(ジャディードの主張に沿ったもの)などが採択された。最も議論が発熱したのは、ムスリム諸民族の自治とロシア国家との関係をめぐってであった。タタール人は中央集権国家としてのロシア国家の内部において、各民族は居住地域の枠にとらわれず文化的民族自決の原則にたつことを主張し「統一主義」と言われた。それに対して(タタール人のヘゲモニーに反発する)アゼリー人(バクー地方)やウズベク人は、使用言語が同じ民族集団が居住する地域を単位として領土的自治を行い、地方分権的な連邦国家を構成すべきであるという「連邦主義」を主張した。激しい議論の末の採決は、446票対271票で、「連邦主義」が議決された。
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書籍案内

山内昌之
『スルタンガリエフの夢』
1986 東大出版会
2008 岩波現代文庫再刊