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広州国民政府/広東国民政府

1925年7月、広州で国共合作中の中国国民党が樹立した政権。国民政府の最初の政権であり、共産党員、ソ連代表なども含んでいた。翌26年に蔣介石が北京の軍閥政権に対する北伐を開始し長江中流を押さえたので武漢に進出し、それ以後は武漢政府という。その後、国民党内の左右対立が激化。

 孫文の主導によって1924年に第1次国共合作に踏み切った中国国民党は、広東軍政府として中国共産党員を含み、ソ連から派遣されたロシア人政治顧問ボロディンや軍事顧問ガレンなどの指導を受けながら、北京の軍閥政府および帝国主義列強との戦いを進め、中国統一を目指した。孫文は1925年3月に死去するが、その直後の5月に、上海での日本、イギリス、フランスの租界警備隊による中国人労働者殺害事件から一挙に中国の民族運動としてで五・三○運動が始まった。上海のストライキが広州、香港に波及すると、広東軍政府は積極的に支持し、香港の経済封鎖を行い、イギリスに大きな打撃を与えた。

五・三〇運動を機に樹立

 この中国人の反帝国主義、民族主義の運動が高まりを受け、広東軍政府の中国国民党は、それまで敵対的であった広東一帯の地方軍閥軍を討伐して、1925年7月に広州で「広州国民政府」(広東政府、広東国民政府とも言う)を樹立した。主席は孫文の右腕とされていた汪兆銘(汪精衛)であった。これが中国国民党が樹立した「国民政府」の最初の政権である。当時中華民国は、北京にあった軍閥政府の力がまだ大きく、広東国民政府はそれに対する地方政権の一つに過ぎなかったが、次第に勢力圏を拡げ、中国を二分する勢力になっていった。

蔣介石、北伐を開始

 中国国民党の軍事部門を押さえた蔣介石が次第に力をつけてきて、1926年7月、ついに彼を司令官として北伐を開始すると、中国共産党も協力した。
 この広州国民政府は、第1次国共合作によって多くの共産党員が加わっており、北伐軍にもソ連からも軍事指導員が参加していた。北伐は順調に進み、長江中流域を押さえたので、1927年2月、国民政府は広東から武漢に移動して、武漢政府といわれるようになる。
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