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南京事件

1927年、北伐軍のせまる南京で外国人が殺傷され、イギリス・アメリカなどが報復として南京を砲撃した事件。蔣介石が共産党を排除する上海クーデタの前提の事件となった。

 第1次国共合作下で、国民革命軍の北伐が迫った1927年3月24日、南京で民衆暴動が起こり、アメリカ・イギリス・フランスの領事館・外国人住居・教会などが暴徒に襲われ、外国人6名が殺害されるという事件が起こった。アメリカとイギリスは報復として長江に軍艦を派遣し南京を砲撃、中国側に約2000人の死傷者が出た。

国共合作に暗雲

 事件の真相は明らかではなく、暴徒は敗走する軍閥兵に扇動されたらしいが、アメリカ・イギリスは共産党員のしわざとして蔣介石に共産党排除を強く要求した。蔣介石はそれを受けて共産党排除に傾いていった。
 1927年4月12日、蔣介石は上海クーデタを起こし、共産党を排除し、大弾圧を加えた。これによって国民党右派と共産党の対立は明白となり、蔣介石は独自に南京国民政府を樹立、国共分裂は決定的となった。

南京事件の日本政局への影響

 南京事件が起こった際、日本の第一次若槻内閣の若槻礼次郎首相・幣原喜重郎外相はアメリカ・イギリスからの共同出兵を要請されたが断り、国内の軍部・右翼から軟弱外交と非難された。おりからの金融恐慌に対する閣僚失言もあって若槻内閣は総辞職し、幣原外相も辞任、次の田中義一内閣は積極外交に転じ、山東出兵を行うことになる。幣原外交のもとで国際協調を進めていた日本が、積極外交という名の、侵略的性格に転換する契機となった。
注意 1937年の日中戦争中の日本軍による南京虐殺事件を南京事件と言うこともあるが、これとは別なので注意すること。
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