印刷 | 通常画面に戻る |

インドネシア国民党

1927年にスカルノなどが結成したインドネシアの民族独立を目ざす政党。独立後はスカルノのムルデカ体制を支えた。

 オランダ領東インドとしてオランダの植民地支配が続いたインドネシアで、20世紀になってインドネシア民族主義運動が活発になってきた。その一つ、1927年7月に、スカルノが中心となってインドネシア国民党を結成した。結成時にはインドネシア国民連盟と称していたが、1928年に正式にインドネシア国民党となった。<鈴木恒之『スカルノ インドネシアの民族形成と国家建設』世界史リブレット(人)92 2019 山川出版社>

スカルノとインドネシア国民党

 インドネシア国民党の創設は、1927年4月、バンドゥンのスカルノ宅で決定された。その目的は「自由インドネシア」の実現であり、その目的を「大衆行動」によって達成するものとした。国民党創設参加者は、スカルノ、チプト・マングンクスモ、イスカック・チョクロハディスルヨ、スナリオなど。結成当時の名称はインドネシア国民同盟で、1928年5月のスラバヤでの第1回党大会で国民党と改称した。正式には1927年7月4日とされているが、それはアメリカ合衆国の独立記念日であるからであった。党本部はバンドゥンに置かれ、バタヴィア、ジョクジャカルタ、スラバヤに支部が置かれた。機関紙『プルサトゥアン・インドネシア(インドネシアの統一)』をスカルノ、スナリオを編集委員として発行した。
 国民党は、1928年末に党員2800、党員の多くは法律家、経理士、技師、教師、会社事務員、商人など中産階級であった。29年末には党員は1万人に達したが、事実上バンドゥン、バタヴィア二都市を中心とした西ジャワの地方政党に止まっていた。しかしこの時期、スカルノは運動全体のリーダーシップを掌握し「国民的指導者」としてみなされ、またそう自覚するようになった。それは、スカルノが提唱して1927年12月、国民党、インドネシア研究会、イスラム同盟党、ブディ・ウトモなどと大同団結しインドネシア国民政治団体協議会を結成し、また国民党主催の集会でその演説が聴衆を魅了したからであった。<白石隆『スカルノとスハルト』現代アジアの肖像11 1997 岩波書店 p.26-29>

青年の誓い「一つの祖国、一つの民族、一つの言語」

 1928年10月、スカルノの率いるインドネシア国民党は、インドネシア青年会議を開催し「青年の誓い」宣言をおこなった。
  1. われわれインドネシア青年男女は、われらの血がしみ込んだひとつの郷土たる、祖国インドネシアを承認する。
  2. われわれインドネシア青年男女は、ひとつの民族たる、インドネシア民族を承認する。
  3. われわれインドネシア青年男女は、統一の言語たる、インドネシア語を承認し尊重する。
これが有名な「一つの祖国、一つの民族、一つの言語」のスローガンである。
(引用)その意味は、オランダ領東インドではなく、「インドネシア」が我が国であり、ジャワ人やスンダ人やアチェ人ではなく「インドネシア人」が国民であり、ジャワ語やスンダ語やアチェ語ではなく「インドネシア語」が国語であるということにある。これにより、多様なインドネシアの人びとが、スカルノの下に一つにまとまったのである(ただし、すべての社会集団がそうだったのではなく、独立後、イスラーム勢力や地方勢力の間で分離独立運動が起こった)。<岩崎育夫『入門東南アジア近現代史』2017 講談社現代新書 p.112>

独立運動と弾圧

 指導者の多くはオランダ留学から帰った知識人であったが、スカルノには留学経験はなかった。もう一つの運動体であったインドネシア共産党の民族運動が、武装蜂起に失敗して衰えた後、インドネシア国民党は植民地政府に対する非協力を呼びかけ、統一と団結を訴えた。
 その「独立(ムルデカ)」という合い言葉は各地に広まり、人々の支持を受けたが、独立運動の高揚を恐れたオランダ当局は弾圧を開始、1929年末にスカルノら指導部を逮捕し、裁判にかけた。裁判ではスカルノは独立運動の正当性を訴えたが、結局、31年4月に懲役4年の判決を受けた。残されたサルトノら国民党幹部は、弾圧を避けるために解散を決めたが、当時オランダにいたハッタやシャフリルは解散に反対し、帰国後、インドネシア民族教育協会を設立した。1931年、スカルノが恩赦で出獄して運動の再建を目指したが、ハッタなどと路線の対立からまとまらず、インドネシア国民党は分裂、スカルノはインドネシア党、ハッタはインドネシア民族教育協会を指導することとなった。オランダ総督デ=ヨンゲは弾圧の手を弛めず、1933年8月、口実を設けて再びスカルノを逮捕した。スカルノはフローレス島のエンデ、さらにスマトラのブンクルに流刑となった。

独立後の国民党

 第二次世界大戦後の1946年に再建され、55年の選挙では4大政党の一つに躍進した。1960年代にはスカルノの与党としてナサコム体制を支えたが、1965年9月の九・三〇事件を契機にして66年に軍部が台頭、67年にスカルノ体制が倒され、スハルト独裁体制が成立すると、スハルトを支える政府与党ゴルカルに押されて衰退し、1973年には他の民族主義政党と共にインドネシア民主党に統合された。<『インドネシアの事典』同朋舎 p.81>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

岩崎育夫
『入門東南アジア近現代史』
2017 講談社現代新書

白石隆
『スカルノとスハルト』
現代アジアの肖像11
1997 岩波書店