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スルタン制廃止

1922年、トルコ大国民議会が決議し、スルタンが廃位された。これによってオスマン帝国は滅亡した。なお、カリフの地位はなおも存続が認められたが、そちらも1924年に廃止される。

 オスマン帝国の最高主権者(君主)の地位をスルタンといい、建国以来、その地位は世襲されてきた。スルタン政治は1908年の青年トルコ革命で実権を失い、立憲君主政となり、形骸的なものになっていたが、なおも形式的にはスルタン(政治権力者)はカリフ(宗教上の指導者)を兼ねるというスルタン=カリフ制が維持されていた。第一次世界大戦で青年トルコ政権が倒れると、スルタンは国家主権者として連合国とのセーヴル条約の交渉当事者とされ、結局、屈辱的な条約に調印した。
 このようなオスマン帝国のスルタン政治の危機は、同時にイスラーム世界の宗教的指導者としてのカリフの危機であったので、イスラーム教徒の間にその擁護の運動が起こった。特にインドでは、反英闘争と結びついてカリフ擁護運動としてヒラーファト運動が起こり、ガンディーがそれを強く押し進めた(彼自身はヒンドゥー教徒であったが)。

トルコ大国民会議で決定

 しかし、1922年11月1日ムスタファ=ケマルの指導するトルコ大国民議会は、スルタン制の廃止を決議し、最後のスルタン、メフメト6世はマルタ島に亡命した。これによって建国以来のスルタン制度は終わりを告げた。
 なお、カリフの地位はイスラーム教徒の気持を押さえるため、なおも存続したが、トルコ共和国の世俗化政策のなかで、1924年3月3日カリフ制も廃止され、最後のカリフ、アブデュルメジト2世は国外追放となった。

最後のスルタン、メフメト6世

 第一次世界大戦後での敗戦が続いたオスマン帝国スルタンのメフメト6世は、1918年10月、連合国に対して降伏、イギリス、フランス、イタリア、ギリシアの連合国はイスタンブルを占領した。こうしてメフメト6世はその支配下に置かれ傀儡政権化した。1920年8月、連合国側が講和条約としてセーブル条約を押しつけてきたが、それはオスマン帝国の領土をほぼ奪い、軍備の制限、治外法権の維持、財政は英仏伊三国の共同管理下に置くという苛酷なものであった。「メフメト6世は連合国による一身の安全と財政保障を密約条件として、事実上祖国の滅亡を意味するこの条約に調印してしまう」。それに対してムスタファ=ケマルを中心とするアンカラ政府が受諾を拒否した。ムスタファ=ケマルは、当初スルタンへの忠誠を表明していたが、ギリシア軍の侵攻に対してアンカラにトルコ大国民議会を招集して新政府樹立を諸外国に通告すると、メフメト6世はそれを越権行為として激怒し、ケマルらを欠席裁判で死刑を宣告した。しかし、ケマルの指導するトルコ国民軍が善戦し、ギリシア軍の侵攻を撃退して1922年にはローザンヌで新たな講和条約の締結のための会議が開催されることとなった。
(引用)この会議の開催通知がメフメト6世にも送られてきたことがトルコ国民を刺激した。連合国はまだスルタンを正式代表と見なし、これと手を組むことによって救国独立戦争の成果を骨抜きにしようとしている!もはやトルコを守るためにはスルタンを打倒するしかない!国民は初めてスルタン制そのものに対して排撃の声を上げたのである。国民会議は満場一致で帝政廃止を可決したが、メフメト6世が家族とともに英国軍艦でマルタ島へ亡命することを黙認した。<大島直政『遠くて近い国トルコ』中公新書 1968 p.126-131>