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全権委任法

1933年3月、ヒトラー内閣が成立させた内閣に絶対的権限を付与する法律。これによってヴァイマル憲法の議会制民主主義は抹殺された。

 ドイツにおいて、1933年3月24日に成立した「全権委任法」は、正式には「民族および帝国の困難を除去するための法律」といい、「帝国暫定憲法」とも呼ばれている。あるいは略して授権法ともいう。この法律は、内閣に対し無制限の立法権を賦与し、さらに大統領の諸権限は縮少さるべきでないと規定した。議会の立法権は、完全に、廃止されたわけてはないとはいえ、事実上、有名無実なものとなり、その結果、それは、例外的な事情においてのみ、したがって装飾的な目的のためにのみ、用いられるようになった。
 これは1932年選挙で230議席を占めて第一党となり、翌年1月に成立したヒトラー内閣が、1933年2月27日国会議事堂放火事件によって共産党を事実上排除したのに続く、第二のクーデタの意味があった。まもなく全ブルジョワ政党は完全に自発的に解散し、6月に社会民主党、7月に共産党が禁止されて、ドイツ共和国のドイツの議会政治・政党政治は終わりを告げた。
 日本では日中戦争突入後の第1次近衛内閣の時、1938年に成立した国家総動員法がある。

全権委任法の意味

 全権委任法によって、権力者であるヒトラーが議会に諮ることなく法律を作ることができることになったのであり、大統領制は残っていたが議会政治がこれで否定されたことになるので、ヴァイマル憲法の事実上の廃止を意味していた。つまり、ヴァイマル共和国が終わったのである。議会政治の廃止を議会自身が議決するというようなことがなぜ可能だったのだろうか。直前の1933年3月の選挙でナチ党は第1党にはなったが、議席の過半数に達していたわけではなかった。しかも憲法改定の議案だから3分の2以上の賛成がハードルだった。それなのになぜ全権委任法が成立したかというと、次に述べられているような、まさに「議会テロ」といわれるような強引な手段が執られたからであった。

議会テロで成立

(引用)全権委任法は、自由主義的な立憲主義の諸原理からの、また国家の立法権を制限する規範や慣習の体系からの、最も激しい背離を代表していた。‥‥その法律は、441対94の賛成投票によって成立したこと、したがって、必要得票数、すなわち出席議員の五分の二以上の票(ワイマール憲法第七六条)を獲得したことは、事実である。だが、議会テロは、脅迫的ふんいきの中て開かれたのである。81名の共産党代議士と多数の社会民主党の代議士は、すでに正当な理由もなく、逮捕されていたのて、出席していなかった(出席していた社会民主党代議士は、この法案に反対投票した。)もしも、中央党が屈服せず、この法案に支持を与えていなかったら、テロ支配の手綱は、おそらく、解かれていたにちがいない。<ノイマン『ビヒモス』P.50-51 みすず書房>