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スターリン体制

1929~53年のスターリンが独裁権力を持った時期のソ連の体制。ソ連の歴史で新経済政策(NEP)の時期の次に位置し、1929年スターリンの権力確立から、第二次世界大戦をはさんで、1953年のその死去までの24年にわたり独裁が行われ、反対派に対する厳しい粛清による多くの犠牲者が出た。

 1917年の十月革命(十一月革命)で成立したロシアのソヴィエト政権は、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連邦/ソ連)を成立させ、世界最初の社会主義国家の建設を開始した。同時に、なおも続く革命への干渉、国内の反革命運動、農村の生産性の低さ、多民族の統合強行に対する民族的反発など、多くの課題に直面した。1924年、レーニンの死によってソ連共産党一国社会主義論路線への転換を主張するスターリンと、世界革命論(永続革命論)を主張するトロツキーとの深刻な内部対立が生じ、危機が続いた。この対立はトロツキー派の排除に成功したスターリンが優位に立ち、1929年までにはほぼスターリンが権力をにぎった。

戦前のスターリン体制

 スターリンは、1929年にスターリン政権を樹立し、同年からの第1次五カ年計画、つづく第2次五カ年計画の10年間を通して、社会主義国家の建設を目指して工業化とコルホーズソフホーズによる農業集団化を推し進めた。この間、特に1930年代は政治的な対立者や、独裁体制に批判的な人々を厳しく処罰し、粛清が行われ、スターリンに対する個人崇拝が強まった。1936年制定のスターリン憲法では、ソ連の社会主義の建設は完了したと認定され、「党の支配する国家」が完成し、党の指導者スターリン支配が揺るがないものとなった。この間、資本主義世界では世界恐慌が起き、ドイツ・イタリア・日本などのファシズム国家が台頭、一方の先進的な帝国主義諸国はブロック経済を形成し自国の利益を守ろうとした。ニューディール政策で国内市場の再建に向かいつつあったアメリカが提携してファシズムと対決する情勢となった。

独ソ不可侵条約

 しかし、イギリスなどの帝国主義諸国はスターリンのソ連を敵視していたので、ナチス・ドイツに対して宥和政策を採ることとなり、スターリンは英米に不信感を強めて1939年に独ソ不可侵条約を締結した。
 1939年9月、ヒトラー・ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦に突入すると、スターリンはドイツとの密約に基づき、ポーランドに侵入し、その東半分を獲得した。さらにソ連-フィンランド戦争を起こし(そのため国際連盟から除名される)、バルト三国を併合するという領土拡張を行った。

独ソ戦の開始

 勢力拡大を東方に転じたヒトラーが1941年、突如不可侵条約を破っソ連に侵攻、両国の全面的な独ソ戦が開始された。ドイツを共通の的とすることとなったスターリンと英米首脳とは1943年のカイロ会談以後、戦争の遂行と戦後世界のあり方について、会談を重ねる。スターリンは英米に対し第2戦線(連合国がドイツの西側で攻勢をかけること)を要求し、英米はスターリンに対日参戦を要求した。また戦後構想では国際連合の設立に同意し、三者の合意によって戦後の枠組みができあがった。この間、ソ連はスターリングラードの戦いなどでの激戦でドイツの攻勢を凌ぎ、形勢を逆転させて東ヨーロッパ諸国を次々と解放し、勢力を扶植していった。

戦後のスターリン体制

 1945年5月、ヒトラー・ドイツが降伏し第二次世界大戦が終結すると、特にドイツ問題で米英とソ連の利害の対立が表面化し、一挙に資本主義陣営と社会主義陣営の東西対立という冷たい戦争(東西冷戦)に突入した。スターリンはその後も強大な独裁権力を握って米英との対決姿勢をつづけ、また東欧諸国や国共内戦を展開していた中国共産党を支援した。しかしスターリン独裁体制は次第に硬直化し、ユーゴスラヴィアの離反などを招き、国内の自由化を求める声も強くなってきた。 → 第二次世界大戦後のソ連

スターリン体制の転換

 1953年にスターリンが死去したが、ソ連首脳部はブルガーニンなどの集団指導体制を敷き、スターリン体制は継承された。1955年には西側で西ドイツが再軍備して北大西洋条約機構(NATO)に加わると、ソ連は東欧社会朱熹権の諸国との間で軍事同盟であるワルシャワ条約機構を結成し、それに対抗した。こうして冷戦構造は固定化され、米ソとも核武装、ミサイル開発などに走り、それはともに財政に大きな負担となっていった。そのころようやくソ連でもスターリン体制の転換を図る試みが始まり、1956年にフルシチョフ第一書記はスターリン批判に踏み切った。
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ノートの参照
第15章4節 オ.ソ連の五カ年計画とスターリン体制