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独ソ戦

1941年6月、独ソ不可侵条約を破棄したドイツが突如、ソ連に侵攻。第二次世界大戦が拡大し、ドイツ軍は北部ではモスクワやレニングラード、南部ではコーカサスに迫った。1942年8月に始まったスターリングラード攻防戦は、翌年2月2日、ドイツ軍の敗北となり、その後はソ連軍が西進、東欧諸国を解放しながらドイツに迫り、1945年4月にベルリンを占領、ドイツ軍が降伏して終わらせた。独ソ戦での戦闘はドイツ・ソ連双方あわせて約3000万人を越える戦闘員・民間人の犠牲者を出した。

 1941年6月22日未明、ナチス=ドイツ軍は突如大兵力をソ連領に侵攻させた。これは独ソ不可侵条約に違反する行為であり、ヒトラーがどのような戦略的意図から行ったことかわからないことが多い。イギリスと交戦中であり、非交戦国とはいえイギリスを支援しているアメリカが控えているにもかかわらず、その一方でソ連と事を構えて二方面作戦を開始することは不利であると考えられるが、そのような常識的な戦況判断を越えたヒトラーの信念であったらしい。もともとヒトラーは共産主義とは相容れない思想を持ち、またロシア人を劣等民族として軽蔑していた。いずれにせよこの決断は、第二次世界大戦の行方を決する方向転換であった。
 ヒトラーのナチス=ドイツ軍が侵攻することをソ連の独裁者スターリンは予測していなかった。そのためドイツ軍はまったくの奇襲となり、ソ連軍は大きな犠牲を払い、後退しながら体制を整備しなければならなくなった。ソ連領内の戦闘は、1942年8月に始まったスターリングラードの戦いでドイツ軍が43年2月に降伏して山場を越し、ソ連軍が反撃、ドイツ国内に侵攻して1945年5月7日、ドイツの無条件降伏で終わる。

独ソ戦のもたらしたこと

 独ソ戦は広範囲な戦闘範囲で莫大な戦死者が出た。ソ連軍の人的被害は、戦死者・戦傷死・戦病死・行方不明・捕虜の総計が1128万5057名とされている。ドイツ側の戦死者、民間人の犠牲を含めば、約3000万を超えると想定されている。<独ソ戦の犠牲者数については下掲>
 第二次世界大戦全体ではソ連(1939年の総人口1億8879万人)側では戦闘員866万~1140万、民間人450万~1000万、他に疫病や飢饉により800万~900万人が犠牲となった。ソ連崩壊後正確な統計が取られるようになり、現在では2700万人が失われたとされている。ドイツ(1939年総人口6930万人)では戦闘員444万~531万、民間人150万~300万人が犠牲となったと推計されている。日本(1939年の人口約7138万人)で戦闘員210万~230万、非戦闘員が55万~80万と推計されている。第二次世界大戦での犠牲者ではソ連が桁違いに多かった。<大木毅『独ソ戦』2019 岩波新書 はじめに>

二人の独裁者による世界観戦争

(引用)こうした悲惨をもたらしたものは何であったか。まず、総統アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部が、対ソ戦を、人種的に優れたゲルマン民族が「劣等民族」スラヴ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボリシェヴィズム」との闘争と規定したことが、重要な動因であった。彼らは、独ソ戦は「世界観戦争」であるとみなし、その遂行は仮借なきものでなければならないとした。・・・ヒトラーにとって、世界観戦争とは「みな殺しの闘争」、すなわち、絶滅戦争にほかならなかった。加えて、ヒトラーの認識は、ナチスの高官たちでなく、濃淡の差こそあれ、国防軍の将官たちにもひとしく共有するものであった。
 そうした意図を持つ侵略者に対し、ソ連の独裁者にして、ソヴィエト共産党書記長であるヨシフ・V・スターリン以下の指導者たちは、コミュニズムとナショナリズムを融合させ、危機を乗り越えようとした。かつてナポレオンの侵略をしりぞけた1812年の「祖国戦争」になぞらえ、この戦いは、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」であると規定したのだ。<大木毅『独ソ戦』2019 岩波新書 はじめに>

独ソ対立の背景

 東欧とバルカンをドイツ人の生存圏とする構想を持っていたヒトラーは1941年4月、バルカン侵攻を行った。さらにヒトラーにとってロシア領土を獲得しドイツ人の生存圏を拡張することと、ソ連共産主義を絶滅させることが本来の戦争目的であった。フランス降伏後間もない1940年8月、ヒトラーは対ソ作戦計画の準備を命じ、12月には、1941年5月15日までに準備を完了させることを命令した。その準備行動としてバルカン侵攻を実行した。バルカンを制圧した4月末、ヒトラーは対ソ作戦の開始を6月22日と決定した。ヒトラーの計画によれば、ソ連内部の反共産党民衆蜂起を誘発させ、2ヶ月以内に占領を完了する予定であった。
 一方、ソ連はドイツのバルカン侵攻に対応して、4月13日、日ソ中立条約を締結して、戦力の西部への集中を可能にした。さらにスターリンはイギリス・アメリカからドイツ軍のソ連侵攻計画の情報を得ていた。情報のひとつには東京でスパイ活動をしていたゾルゲからのものもあった。しかし、スターリンは独ソ不可侵条約のあるドイツがソ連を侵攻することを信じず、予測された日付も無視していた。そのため、6月22日のドイツ軍の侵攻はまったくの奇襲となり、ソ連軍は受け身に回り、緒戦で大きな犠牲を払うこととなった。
 また当時、スターリン独裁体制のもとで、次々と反対派は次々と粛清されていたが、それはソ連軍首脳にも及び、少しでもスターリンに反対する様子を示した高級軍人が軍から排除されていたことも、ソ連軍の対応が遅れた要因の一つだった。

チャーチルのスターリンへの警告

 チャーチルの『第二次世界大戦回顧録』によれば、ドイツのソ連侵攻の動きを察知したイギリス首相チャーチルは、スターリンに警告したという。しかしスターリンは耳をかさなかったため、奇襲を受けて緒戦の大敗を招いた。このことは後のフルシチョフの「スターリン批判」でもその材料の一つに加えられている。<『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』講談社学術文庫>

バルバロッサ作戦

 ヒトラーはソ連侵攻作戦を「バルバロッサ」と命名した。バルバロッサとは12世紀の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤ひげ王)のこと。イタリア侵攻や第3回十字軍に参加した勇猛な皇帝だが、川でおぼれて死ぬという末路だった。その名を冠したヒトラーの「バルバロッサ」作戦は、おそらく覚悟はしていたであろうが警戒はしていなかったスターリンのソ連軍を蹴散らして進撃し、ミンスク、スモレンスク、キエフなどでソ連軍に大損害を与えながら、レニングラード、モスクワ、スターリングラードの目的地に迫った。レニングラードでは900日に及ぶドイツ軍の包囲が続いたが、ついに開城することはなかった。モスクワへの41年12月に到達したが、戦線は延びきり、兵力不足からドイツ軍はモスクワ入城ができなかった。かのナポレオンのモスクワ遠征と同じようにドイツ軍も「冬将軍」に阻まれたのだった。スターリン指導部は、戦線と工業生産地域を東方に後退させながら、この戦争を「大祖国戦争」と称してスラヴ民族の危機であると国民に訴えて抵抗を続けた。

Episode くりかえされた1812年

 1941年冬を迎え、ドイツ軍の侵攻はソ連領深く入り込んでいたが、かつてのナポレオンのモスクワ遠征と同じ状況となってきた。
(引用)冬は猛烈な勢いでやってきていた。雪、身を切る風、気温はマイナス20度以下に落ち、ドイツ軍戦車のエンジンは凍りついた。前線では、敵の進撃のみならず寒さを避けるために、疲れはてた歩兵が掩蔽壕を掘る。地面が固く凍りついているので、最初に焚き火をしてから掘りはじめなければならない。司令部の幕僚と後衛部隊は、住んでいるロシア人を雪の中に放り出して農家を占領した。
 ヒトラーが冬季の軍事行動を再考しなかったがために、兵士たちは恐るべき辛酸をなめるにいたった。「多くの兵は紙で足を包んで動き回る始末、手袋はまったく不足しております」とある装甲軍団の団長はパウルス将軍に書き送った。石炭入れの形によく似た鉄兜を除けば、とうていドイツ国防軍の兵士とは思えない兵士が大勢いた。ぴったりした鋲底の長靴では凍傷にかかりやすいだけなので、彼らは捕虜や民間人の服やブーツをたびたび盗みに行った。・・・
 ヒトラーも同じように1812年に心を奪われ、いかなる場合にも退却してはならぬという命令を矢継ぎ早にはしていた。この冬さえ乗り切れば、ロシアへの侵入者に降りかかった歴史的呪いはとける。ヒトラーはそう確信していた。<アントニー・ビーヴァー『スターリングラード』2005 朝日文庫 p.63,67>

独ソ戦と日本

 日本は独ソ戦が始まった1941年6月段階では、ドイツとは軍事同盟である日独伊三国同盟(1940年9月)を、ソ連とは軍事同盟ではないが日ソ中立条約(41年4月)を締結していた。独ソ戦を開始したドイツからは6月30日と7月2日、2度にわたって日本参戦をもとめてきた。それに対して日本政府内部では、松岡洋右外相など、来月に予定されていた南部仏印進駐を中止して対ソ戦に参加すべしと主張するものもあったが、軍中枢は南進してアメリカの介入を排除すべしとの意見に傾き、7月2日の御前会議は南部仏印を進め、独ソ戦への不介入方針を決定した。それによって7月28日、日本軍は南部仏印に進駐、焦点は東南アジアから太平洋方面の南方に移った。 しかし参謀本部などには独ソ戦がドイツに有利に展開し、極東のソ連軍が西に移動した場合は武力行使を行うという秘密の合意もなされた。その場合、日ソ中立条約に反することになるがそのような背信行為もやむを得ないとされた。ただちに対ソ戦に踏み切ることはしないこととなったが、陸軍中枢は関東軍の軍備を増強することでソ連に圧力を加えようと、1941年9月に「関東軍特種演習(関特演)」と称して大動員を行い70万の兵員を満洲に集中させた。

第二次世界大戦の転換

 独ソ戦の開始によって、ドイツを共通の敵とすることになったイギリスとソ連は、早くも7月22日、英ソ軍事同盟を締結した。ボリシェヴィキ=スターリン政権を敵視していたイギリスにとって、大きな転換であった。同年8月に発表された米英首脳による大西洋憲章に対しただちに支持を表明、それを受けてアメリカもソ連への武器援助を開始した。42年1月にはソ連も参加して連合国共同宣言が作成され、連合国の態勢が成立した。またソ連はそれまで資本主義国のソ連敵視の原因となっていたコミンテルンの解散を43年6月に実行する。こうして資本主義国と共産主義国が枢軸国に対して一致して戦う連合国を形成するという事態となった。
 独ソ戦開始の半年後の1941年12月8日(ヨーロッパ時間では7日)、日本は、同じく現在から見れば物量的に勝ち目のない戦いであったと思われる対米戦争(太平洋戦争)にふみきり、アメリカの参戦をもたらした。4日後、ヒトラーは対アメリカ宣戦布告を行った。独ソ戦と太平洋戦争という二つの動きが、第二次世界大戦を文字通り「世界大戦」に転化させることとなった。

ユダヤ人、ジプシーの虐殺

 バルバロッサ作戦の当初から、抵抗するパルチザンの処刑にまじって、ユダヤ人やジプシーの大量虐殺という任務が、ドイツ国防軍に与えられていた。「ユダヤ人破壊活動員」の非合法性は曖昧に「ユダヤ=ボリシェヴィキ」の陰謀と同義語とされ、1941年7月10日のドイツ第6軍司令部は、髪の短い私服の者は十中八、九赤軍兵士と考えられるので、出会ったらただちに殺害せよという命令を出している。
 ヒトラーはソ連との戦争を、ボリシェヴィキと戦う十字軍と称し、ユダヤ人やジプシーを絶滅させる人種戦争の一環としてとらえた。国防軍の軍人の中にはヒトラーに疑問を持つ者も多かったが、その命令には忠実に従った。キエフなどの占領地では共産党員、集団農場員の構成員とみなされた者が、その家族の幼児も含めて組織的に殺害された。それに対する赤軍兵の報復もドイツ人捕虜捕殺害や野戦病院に対する攻撃など非人道的な行為をくりかえした。<詳細はアントニー・ビーヴァー『同上書』>

ドイツ軍の敗北

スターリングラード攻防戦 ドイツ軍は、1942年8月からヴォルガ河畔のスターリングラードを包囲し、独ソ戦の最大の山場であるスターリングラードの戦いとなった。ドイツ軍が激しい抵抗を受けて市内への突入ができないでいるうち、ソ連軍はその外側から逆に包囲し、孤立したドイツ軍は補給が途絶えたため撤退を図ったが、ヒトラーはそれを許さず、結局ソ連軍の猛攻によって翌1943年2月2日、降伏した。
 スターリングラードの戦いの後も独ソ両軍はアゾフ海に面したロストフ、内陸のハリコフなどで攻防を展開した。次いで1943年7月にはクルスクで史上最大の戦車戦が行われ、双方に莫大な犠牲をだしながら、ソ連軍が辛勝した。ソ連軍は、同年秋にはキエフを奪還、さらに西進して、ポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリアなど東欧諸国を解放してゆき、1945年4月にベルリンを占領、5月にドイツ軍は降伏して独ソ戦は終わった。

独ソ戦の犠牲者

 1941年6月から1945年5月までの、約4年間、1416日間にわたって続いた独ソ戦では、ドイツ軍は概数で390万4000人、枢軸側同盟国(ルーマニア、ハンガリー、フィンランド、イタリア)が95万9000人、ソ連軍が1128万5000人を戦死・行方不明で失い(負傷は含まず)、独ソ両国と東欧諸国で1500万人を越える民間人の生命が、戦火の中で失われたと言われている。合計すると約3115万人となるが、これを戦争の日数(1416日)で単純に割ると、一日あたり2万2000人に近い人間が犠牲となった計算となる。<数字は、山崎雅弘『新版独ソ戦』2016 朝日文庫 p.353-356 による。>

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書籍案内

大木毅
『独ソ戦
絶滅戦争の惨禍』
2019 岩波新書

A.ビーヴァー/堀たほ子訳
『スターリングラード
運命の攻囲戦1942-1943』
2005 朝日文庫

山崎雅弘
『新版独ソ戦』
2016 朝日文庫