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ドプチェク

チェコスロヴァキア民主化運動の指導者。党書記長として「人間の顔をした社会主義」を掲げ、1968年、「プラハの春」を指導したが、ソ連軍の介入を受けた「チェコ事件」で辞任に追い込まれた。

ドプチェク
 ドプチェク(Alexander Dubcek 1921~1992)は、チェコスロヴァキア社会主義共和国共産党の指導者。第1書記として1968年4月1日に「プラハの春」と言われる民主化を指導したが、同1968年8月20日、ソ連などワルシャワ条約機構軍の介入を受けた「チェコ事件」で辞任、改革は抑圧された。1989年に東欧革命が起こる中で復帰した。
 ドプチェク(ドゥプチェクが原音に近いが日本ではドプチェクが一般化している)は、スロヴァキアの貧しい家具職人の子として生まれ、家族とともにソ連にわたり集団農場で暮らした経験がある。1938年に帰国し、労働者となって共産党に加わり、1944年のスロヴァキアの対独民衆蜂起に加わる。戦後はスロヴァキア地区の共産党幹部として活躍、1960年代からチェコスロヴァキア共産党中央の幹部となった。<右の写真は『戦車と自由』チェコスロヴァキア事件資料集Ⅰ(みすず書房)より>

民主化運動の胎動

 ドプチェクは、東欧共産圏の中では突出して工業生産力の高いチェコスロヴァキア社会の中で、当時硬直した国家運営で表面化しつつあったソ連の停滞とは異なる歩みを模索し、経済的自立を探りながら、チェコスロヴァキアの民主化運動の動きを強めていった。その構想は、「人間の顔をした社会主義」として具体化された。

プラハの春

 1968年、ノヴォトニーに代わって第一書記に就任、大胆な民主化政策を打ち出し「プラハの春」を指導した。3月には検閲制度を廃止して言論の自由を保障し、ついで4月には新しい共産党行動綱領を決定して「人間の顔をした社会主義」を目指すことを打ち出した。6月には70人あまりの知識人が署名して「二千語宣言」が発表され、ドプチェク路線が広がりを見せ、複数政党の出現にとどまらず、あらゆる面で自由化の動きが強まった。

チェコ事件

 それに対して危機感を強く持ったソ連のブレジネフ政権は、社会主義国へのソ連の干渉権を正当化するブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)にもとづいて、1968年8月20日にソ連軍を中心としたワルシャワ条約機構5カ国軍をチェコスロヴァキアに進入させ、ドプチェクらを捕らえ、ソ連に連行した(チェコ事件)。
 ドプチェクは大統領スヴォボダとも協力して、ソ連軍とねばり強く交渉し、プラハに復帰、ソ連軍の撤退を認めさせたが、現実的な妥協もはかり、検閲制度の復活など民主化を後退させた。翌69年、民衆の民主化を求める運動がなお続いたことからソ連が硬化し、ついにドプチェクは退陣、ソ連の意のままに動くフサークに交代した。

Episode 降格、復帰、事故死。数奇なその後のドプチェク

 「チェコ事件」で辞任させられたドプチェクは、その地位から降格され、トルコ駐在大使を最後に公職を失い、ブラチスラヴァの営林署に勤務(一説には一時は公園の監視人となったという)。その後、1989年の東欧革命の中で、チェコスロヴァキア民主化運動が起きると、「プラハの春」の再現を求める民衆の期待を受けて再登場、同年12月、共産党政権が倒れると連邦議会の議長に就任した。しかし、民主化達成後のチェコスロヴァキアでは、ドプチェクら旧共産党員の排除を要求する右派の勢力が台頭、同時にチェコとスロヴァキアの分離運動も起こり、1992年9月1日スロヴァキア議会は連邦から脱退することを決定した。奇しくも同じ日、ドプチェクは交通事故で瀕死の重傷を負い、11月7日プラハの病院で死去した。チェコスロヴァキア共和国の消滅とともに死去したこととなる。
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