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連帯

1980年代の民主化運動をリードしたポーランド自主管理労組。政府の干渉を受けない独立した労働組合の連合体で、1980年の政府の物価値上げに反対してワレサらが結成した。翌年の戒厳令で弾圧されたが、1989年の東欧革命の一環としてポーランドの民主化を進めた。

 正確には、ポーランド自主管理労組「連帯」。ポーランド語で略称ソリダルノスチ1980年9月1日ポーランドの統一労働者党政権(共産党)の行った物価値上げに反対した労働者が結成した。自主管理とは、党の管理、支配を受けないという意味であり、社会主義国の労働組合として初めて党から独立した労働運動が始まったことを意味する。その指導者ワレサが、初代議長となった。
 「連帯」の組織は全ポーランドに広がり、政府も無視することができなくなり、初めて「政労合意」が結ばれ、政府による連帯の承認とともに賃上げや週休二日制などの改善を勝ち取った。しかし、連帯の影響力がこれ以上強まることを恐れた政府(ヤルゼルスキ政権)は、翌1981年12月に戒厳令を出して連帯弾圧に乗り出し、ワレサなどの指導者も逮捕され、「連帯」も非合法とされた。そのためその後しばらくは運動は停滞するが、1988年に社会主義政府の経済政策が行き詰まり、またまた食肉をはじめとする物価値上げが行われると、連帯の組織も復活して再び民衆運動を指導するようになった。

ポーランドの民主化

 翌1989年2月には政府との円卓会議で複数政党制による自由選挙の実施などを勝ち取った。ここから始まったポーランドの民主化は、一連の東欧革命の先駆的な成果を上げた。同1989年6月には自由選挙が実施され、政党としての「連帯」が上院では定員100のうちの99議席、下院では野党枠の161のすべてを獲得し第一党となった。

「連帯」の分裂

 このころから「連帯」内に過激な改革路線をめざす労働者グループと、着実な実績をめざす知識人グループの対立が始まった。前者の代表がワレサであり、後者の代表が首相を務めたマゾビエツキであった。両者の対立によって、翌年の大統領選挙は分裂選挙となり、両者が争った結果、ワレサが大統領に当選した。しかし対立はその後も続き、「連帯」自体が分裂を重ねることとなり、次第に勢力を失っていった。
 2010年4月、カチンの森事件70周年追悼式に向かう途中、政府専用機が墜落して死亡したレフ=カチンスキ大統領(在任2005~2010、双子の兄のヤロスワフは首相だった)はかつて連帯の活動家だった。
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書籍案内

三浦元博/山崎博康
『東欧革命』
1992 岩波新書