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李登輝

台湾(中華民国)の国民党の政治家。1988年から台湾出身で初めて中華民国総統となり、1990年代から積極的な民主化を推進した。

 1988年~2000年の総統として中華民国(台湾)の民主化、近代化を推進した国民党の政治家。蔣経国総統の死去にともない、副総統から昇格して、台湾生まれ(本省人)としての初めての総統となった。1996年3月には台湾で最初の国民の直接選挙による選挙で総統に選出された。
 彼は1923年、日本統治下の台湾で生まれたが、先祖は客家だったと自ら言っている。日本の京都大学農学部で学び、学徒動員として日本兵として戦争を体験、戦後に国民党に入党、蔣介石・蔣経国の国民党政権の下で実務に当たり、台北市長などを務めた後に1988年1月、蔣経国の死去によって、台湾生まれ(本省人)として初めて総統に就任した。李登輝は、それまでの国民党のスローガンであった「反攻大陸」(中国共産党に追われた大陸に戻ること)を取り下げ、中華人民共和国の大陸実効支配を認め、中華民国の本拠は台湾であるとして「台湾中華民国」という国家の呼称を提唱し、その主張は「二国家論」といわれた。

戒厳令下の蔣経国政権

 台湾は1945年、50年にわたった日本の植民地支配が終わったものの、国共内戦で中国共産党に敗れた国民党の蔣介石が移ってきて、中華民国政府によって統治された。国民党政権は1947年に戒厳令を布き、それは蔣介石の子の蔣経国総統時代にも受け継がれていた。その間、国民党以外の政党の禁止、報道の自由の制限の元で独裁政治に反対する民主化運動が何度も起こったが、いずれも官憲の厳しい取り締まりで弾圧されていた。その間、学者であった李登輝は蔣経国政権の迎えられ、経済発展の政策実行にあたり、その成果は1980年代の急速な経済成長となって、台湾はNIEsの一つにあげられるようになった。

台湾の民主化

 1980年代には並行して民主化運動が戒厳令解除を求めて活発になり、86年には初めて野党民進党が結成されて公然と活動を開始、それをうけて1987年7月15日に蔣経国はついに戒厳令の解除に踏み切ったが翌1988年1月13日に急死した。李登輝が政権を継承したのはそのような状況においてであった。
 1990年3月、全国から結集した学生が民主化の実施を要求(野百合学生運動といわれた)、李登輝は学生側の要求に応じる形で、翌1991年4月に動員戡乱時期臨時条項(共産党との内戦が継続していることを前提として総統に憲法を越える権限を認めた臨時法)を廃止して内戦状態の終結を宣言、12月には国民大会の終身資格を持った議員を引退させ、民主的な選挙と国会の開設を約束した。これは大陸出身者(外省人)優位の条項を廃止し、台湾生まれ(本省人)の地位を高めた。
 1996年3月には、総統の任期満了にあたり、台湾で初めて国民の直接選挙による総統選挙を実施して再任された。こうして台湾では、総統選挙・国会議員選挙が行われ、島民が総統と国会議員を直接選挙するという民主政治が実現した。

中国との関係悪化

 李登輝は台湾の民主政治を実現したことがその実績として高く評価されている。しかし、もう一つの台湾の課題である、中国との関係では妥協しない強い姿勢で臨んだことで、好転しかけた流れを逆流させることとなった。中国と台湾の関係は国家間の関係ではないので両国関係とはいえず、一般に台湾海峡をはさんだ「両岸関係」といわれる。その両岸関係は中国の鄧小平政権が改革開放経済に転じたことで大きく変化し、1979年には鄧小平が「一国二制度」による平和的な統合を提案するところまでに至った。蔣経国は交渉を拒否したが、台湾でも1987年に戒厳令の解除を契機に島民の大陸への渡航が許可され、さらに李登輝総統のもとで民主化が進んだことから関係は急速に進展した。1990年から91年にかけて、台湾の海峡交流基金会(海基金)と中国側の海峡両岸関係協会(海協会)を窓口とした交渉が開始された。中国の共産党政権も台湾の国民党政権も現実路線を採用して、衝突を避けたて安定的な経済交流を進めることで一致した。
 しかし、1995年以降、中国の江沢民と台湾の李登輝は、原則的な点で一致できないことを隠せなくなってきた。江沢民は一国二制度を取り下げないものの、武力による統合を否定することはせず、李登輝は中国が武力行使の可能性を取り下げないことに反発し、1995年に台湾海峡でミサイル発射演習を行うなどの強硬姿勢を見せ、一国二制度による統合は非現実的であると拒否した。中国は1997年に一国二制度による香港返還およびマカオ返還に成功したため、台湾にも圧力を強めたが、李登輝は次第に「台湾独立」の指向を強め、両岸関係は悪化の一途をたどった。

政権交代

 2000年には自ら退任したが後継者問題から国民党が分裂選挙となり、民進党の陳水扁の当選を許したことから責任をとって国民党を離党した。離党後、台湾団結同盟を結成して台湾独立に関する発言を続け、中国政府の反発を呼んだ。

統一か独立か

 国民党の主流は、中国との関係を維持し将来的には統一を目指すという統一派であるのに対し、李登輝が国民党から離脱して明確に台湾の独立、つまり「中華民国」というすでに実体のない国名を捨て、「台湾」という国名で独立すべきであるという、いわゆる本土派に転向したことは、中国を強く刺激するという影響が非常に大きかったようだ。

Episode 「22歳までは日本人」

 李登輝が台北高等学校に入学したとき、台湾総督府は皇民化政策の一環として、朝鮮における創氏改名と同じような姓名を日本風に変えることを進めた。李登輝もその時、岩里政男と改名した。1943年に京都大学農学部に入学し、マルクス経済学も学んだという。しかし学徒動員によって、44年には日本兵として入隊し、45年3月10日の東京大空襲では高射砲の射手としてB29を迎え撃ったという。このような経歴から李登輝は自ら「22歳までは日本人だった」と述懐しているという。退任後も病気療養や講演、あるいは「奥の細道」の旅と称して時々来日したが、中国政府は李登輝の来日に対して神経をとがらせ、ビザ発給に抗議した。また、李登輝は来日時は日本語を話していた。
 このように李登輝は「日本びいき」とされており、その言動はしばしば「日本の台湾植民地支配」を肯定的に評価する際に引用される。現在でも台湾の高齢者は自由に日本語を話し、日本統治時代を懐かしむ人が多い。しかしそれをもって日本の植民地支配を肯定してしまうのは、あまりに単純、情緒的な見方であり、殊更に言いつのるのは意図的なものを感じる。それよりも皇民化政策で母国語を奪われた人々に残る傷の深さを恐れ、またそれにたいする激しい抗日運動である霧社事件などがあったことを忘れないようにしよう。
 李登輝の評価は日本ではひときわ高い。しかし、台湾の民主化が、本省人である李登輝が、外省人に対する反発心をもとに、主体的に進めたように理解するのは間違えているようだ。李登輝以前の戒厳令時代に、自由と民主主義を求めて多くの運動があったこと、本省人のなかの先住民の要求などにも目を配っておく必要がある。 李登輝時代に成長した世代には、自分は「中国人だ」というより「台湾人だ」と自覚する人が増えているという。 → <朝日新聞 記事 李登輝に関するトピックス

NewS 李登輝、97歳で死去

 2020年7月30日、李登輝は97歳で死去した。台湾のメディアは「民主先生」との永遠の別れを悲しんだという。葬儀は9月19日、キリスト教式で事実上の国葬として行われ、日本からは森喜朗元総理が参列した。 → <産経新聞 2020/7/31 記事
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