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ピープルパワー革命/フィリピン二月革命

1986年、フィリピン大統領選挙でアキノを当選させ、同時に民衆が蜂起してマルコス独裁を倒し民主化を実現した。

 1986年2月フィリピンマルコス独裁政権に反対する民衆運動から始まった、マルコスを退陣させ民主化を実現させた革命。市民が結集したエドゥサ(エッドサ)通りにちなみエドゥサ(エッドサ)革命ともいい、あるいはフィリピン二月革命とも言われる。
 エドゥサ(エッドサ)大通りとはマニラ郊外の北東、ケソンシティの国会に通じる大通りで、国防省(アギナルド陸軍基地)に面している。正式には Epifanio de los Santos Avenue だが、通称を頭文字をとって EDSA と言っている。このできごとは、高校生用用語集では「マルコス退陣」とか「フィリピン2月革命」などとなっており一定していないが、フィリピンでは「ピープルパワー革命」(人民の力革命)か「エドゥサ革命」と言われている。後者は日本には馴染みのない地名によるので、前者の呼び方が良いだろう。

マルコス独裁を倒した民衆のパワー

 1983年8月に起こったベニグノ=アキノ暗殺事件以後、急速にマルコス独裁に対する反発が強まり、1986年2月7日の大統領選挙にアキノ未亡人のコラソン=アキノが立候補すると民衆の支持を受けて当選した。それを認めないマルコスは戒厳令を敷いて軍を動かそうとしたが、軍内部の反発、カトリック聖職者の離反などが相次ぎ、反マルコスの声が強まった。
 2月22日、アキノ新大統領を支持する多数の市民がマニラ市のエドゥサ(エッドサ)大通りに集まってマルコス側の軍の動きを封じ、大衆運動は25日まで続いた。25日に午前11時、コラソン=アキノが大統領就任式を実行、マルコスもやむなくイメルダ夫人と米軍のヘリコプターで午後9時にマニラ・マラカニアン宮殿を脱出し、クラーク基地からハワイに亡命した。この変革は、開発独裁を終わらせ、アジアの民主化を実現した時代の象徴的な出来事となった。

ピープルパワー革命の背景

 1986年2月の大統領選挙で勝利したコラソン=アキノは、83年に暗殺されたベニグノ=アキノ未亡人であるので同情票が集まったとうこともいえるが、それだけではなく、フィリピンの各方面でマルコス独裁体制が見放されていたこともある。まずマルコス大統領が反財閥を掲げて取り上げた権益を一部の取り巻きに分け与えたり、国家財政をイメルダ夫人の私的な浪費に充てたりしていることに旧財閥系の経済界が反発した。またスペイン植民市支配に対する抵抗を精神面から支えた伝統もつカトリック教会も独裁政治を苦々しく見ていた。そして表面的にはマルコスを支持していたアメリカも、民主主義を標榜している手前もあって秘かにマルコスを見限りつつあった。マスコミも独裁政治批判を強めていた。そしてマルコス政権の下で対外債務が360億ドルに膨れ上がっていることを知った国民の多くは国家崩壊の危機を感じ取っていた。

教会・軍・民衆

 このような情勢のもとで行われた大統領選挙は、予想通りコラソン=アキノの勝利となったが、マルコスがそれを認めず戒厳令を布いたことで、民衆の怒りが爆発した。しかし、革命を成功させる上で決定的な役割を果たしたのは、国軍の一部が反マルコスに回ったことと、教会の呼びかけであった。2月22日の現場を鈴木静夫氏は次のようにつたえている。
(以下小見出しを除き引用)
大統領選挙 この2月7日に行われた投票は、アメリカ中央情報局の資金で運営されていた選挙監視団(NAMFREL)の監視下にあった。選挙管理員会の発表ではマルコス優位が伝えられ、選挙監視団集計ではアキノの勝利であった。マルコスは選挙結果の公表を急いでいた。選挙結果は議会で承認されなければならない。2月15日、マルコスは野党議員が一斉に退場したあと、その手続きを議会で行った。翌日午後、今度はアキノの「人民の勝利」集会がマニラ湾のルネタ公園で行われた。日比谷公園をしのぐ大広場が群衆で埋まった。彼らの「コーリー、コーリー、コーリー」というリズミカルな歓声が、集会を熱狂のウズに巻き込んだ。アキノは非暴力による全国的な不服従運動を提唱した。
国軍改革派うごく だが対決は首都圏の大環状線エッドサ大通りに持ち込まれた。2月22日ホナサン中佐の国軍改革派が決起し、エンリレ国防相、ラモス副参謀長を擁して、大通りに面したクラメ基地に籠城する事態となった。エンリレは電話でシン枢機卿に、「われわれはあと30分もすれば全員殺されてしまう」と緊急の支援要請を行った。シンは時を移さず、自ら「ラジオ・ベリタス」でカトリック教徒にエッドサ大通りに集まるよう呼びかけた。100万人の人々がエッドサ通りを埋めた、と後にシンはいった。
カトリック教会の呼びかけ 片側4車線のこの大通りに、何台ものマルコス軍の戦車が入ってきた。戦車は前進しようとした。カトリック・シスターたちが祈りを始め、民衆は震えながら戦車の前に身を投げだした。籠城軍にも、戦車兵にもジュースや果物、食料が届けられ、戦車の銃口には花束が結ばれた。キリストやマリアの聖像を大事そうに抱えている人たちもいたし、ロザリオの鎖を握りしめている人々もいた。・・・
<鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』1997 中公新書 p.275-277>
 ピープルパワー革命におけるカトリック教会は、16世紀のスペインによる統治以来のフィリピンが、まぎれもなくカトリックの国であることを感じさせる。しかし鈴木氏も「エッドサの政権奪取劇をカトリック勢力が独力で演出したと見るのは誤りであろう」とも述べている。
 戦争中のフクバラハップに遡る社会改革の勢力は、ゲリラ闘争は後退したものの、社会の中に温存されていた。それまで一貫して議会政治に反対し投票をボイコットしていたフィリピン共産党は、このとき選挙というシステムを通じて「人民の力革命」が発揮できたことを受け止め、それまでのボイコット方針の誤りを認めた。1986年2月の選挙は、投票行動を通じて非暴力による“フィリピン式”解決方法を提示したのである。<同 p.278>