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ナミビア

1884年からドイツの植民地(南西アフリカ)となり、第一次大戦によって南アフリカ連邦の委任統治領とされる。第二次大戦後信託統治領とされたが、南アの白人政権が一方的に領土に編入、アパルトヘイトも導入された。激しい独立運動が続き、国際連合の仲介で1990年に独立を達成した。

ナミビア GoogleMap

 ナミビアはアフリカ東南部の独立国で北にアンゴラ、南に南アフリカ連邦、東にボツワナが接している。アフリカの諸国では独立が遅かった国の一つで、1990年の独立である。大西洋に面した海岸地方にはナミブ砂漠、内陸にはカラハリ砂漠が広がっており、国土の大半は農耕、牧畜には適しておらず、住民は現在も狩猟を主とした部族生活を送っている。
 ナミビアからボツワナにかけて広がる広大なカラハリ砂漠は、厳しい自然環境の中で現在も狩猟採集生活を送る人びとがいる。彼らは南アフリカ出身の作家ロレンス=ヴァン=デル=ポスト(映画『戦場のメリークリスマス』のロレンス大佐)が書いた『カラハリの失われた世界』(1969)や、映画で「ブッシュマン」として知られるようになった。
 ドイツビスマルクの末期、1880年代にアフリカへの進出を行い、トーゴランド、カメルーン、東南アフリカなどと共に植民地支配を行った。ナミビアはその一つでドイツ植民地時代はドイツ領南西アフリカといわれ、第一次世界大戦まで続いた。

南ア連邦による支配

 第一次世界大戦が始まった1914年、南に隣接する南アフリカ連邦(イギリス連邦の自治領のひとつ。現在の南アフリカ共和国)の軍隊がドイツ領南西アフリカに侵攻、そのまま占領を続けた。大戦後に国際連盟は南ア連邦の委任統治領となったが実質的には南ア領として統治された。第二次大戦後の1945年からは国際連合の信託統治領とされ、国際連合から南ア連邦が統治を信託されるという形となったが、南ア連邦は実質的な統治を続けた。国際連合はそれを不法統治として非難したが、1961年に成立した南アフリカ共和国の白人政権は国連を無視して一方的にこれを自国領土に編入してしまった。

南アの支配から独立

ナミビア国旗
ナミビア共和国国旗
 それに対して、黒人は南西アフリカ人民機構(SWAPO)を結成し、独立を目ざして起ち上がった。1966年に国際連合は南ア共和国の統治を認めないことを決議し、1968年にはSWAPO政権を認めて「ナミビア」と呼称することとしたが、南ア政府は無視し、闘争が続いた。南アによるナミビアの不法占領は、そのアパルトヘイト政策と共に国際世論の激しい批判を受けたが、80年代まで続き、南アはさらにナミビアを拠点としてその北のアンゴラの内戦にも介入、多数の犠牲者を出した。1978年、国連安保理はナミビア独立の手続きを決定し、その後も国連が仲介して和平交渉に当たり、ようやく1990年3月にナミビア共和国として独立を達成した。
 現在のナミビア共和国は、国土が85.4平方㎞で日本の約2倍強、人口は244万。首都はウィントフック。公用語は英語となっているが、アフリカーンス語、ドイツ語も使用されている。

ドイツ、植民地支配を謝罪

 ドイツは1884年から第一次世界大戦まで、現ナミビアをドイツ領南西アフリカとして植民地支配した。この間、現地人から土地を強奪、抵抗して蜂起したヘレロ人とナマ人を近代兵器を使用して鎮圧、1904年から1908年にかけて、数千人を殺害した。生き残った人びとは強制収容所での労働を強いられ、寒さや栄養失調で多くの人が死亡、8万人のヘレロ人のうち約6万5千人、2万人のナマ人のうち1万人が亡くなったと推計されている。
 ドイツ政府のマース外相は2021年5月28日付けの声明で、「植民地支配の罪を認めて謝罪する」として、その償いとして11億ユーロ(約1400億円)以上の資金を提供することでナミビア政府と合意したと発表した。資金は今後30年間のナミビアの農業や水道の整備、医療分野の強化に充てられる。両国の交渉は2015年から続けられてきたものであるが、植民地支配の被害に対する補償を求めてきたヘレロ人とナマ人の代表は、合意は欺瞞であり、不十分であると批判している。<しんぶん赤旗 2021/5/29 記事>
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L・ヴァン・デル・ポスト
佐藤佐智子訳
『カラハリの失われた世界』
1993 ちくま文庫