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チェチェン紛争

カフカス地方のチェチェン共和国がロシア連邦からの分離独立を求め、1994年に以来たびたび武装蜂起し、ロシア軍が武力鎮圧する事態がくりかえされた。2000年にプーチン政権下のロシア軍が侵攻し、紛争が激化、モスクワでのテロが起こった。テロとの戦いを掲げたプーチン政権が2009年までに制圧した。

チェチェン共和国 GoogleMap

ロシア連邦内の一つの共和国であるカフカス地方のチェチェン共和国の分離独立運動。ソ連の解体後のロシアで起こった民族紛争で、最も激しい戦闘となった。1994年~96年の第1次と、1999年からの第2次の二度、紛争が激化し、ロシア軍の侵攻とそれに対抗する独立派武装組織による激しいテロ活動が展開された。2009年までに戦闘は終結したが、現在も未解決である。ロシア連邦では他にグルジア共和国内のアブハジアや南オセチアでの分離独立運動が起こっている。

第1次チェチェン紛争

 1991年のソ連邦の解体に伴い一方的に独立を宣言したが、ロシア連邦のエリツィン大統領はそれを認めなかった。1994年に、共和国の独立を目指す武装グループが武装闘争を開始し、ロシアはそれに対して軍事行動を展開し鎮圧にあたった。山岳地帯に拠った武装勢力のゲリラ戦に悩まされながらロシア軍が95年に制圧し、翌96年に停戦が成立した。

第2次チェチェン紛争

 1999年、チェチェン共和国の独立を主張する武装グループが蜂起し、またモスクワでもテロ事件が起こったため第2次紛争が勃発し2000年2月にロシア軍はグローズヌイに派兵した。エリツィンにかわり大統領となったプーチンはさらに再度武力行使を本格化させ、地上軍を派遣すると共に首都グロズヌイなどを空爆した。武装グループのテロ活動は激しさを増し、2002年にはモスクワの劇場占拠事件(169名が死亡)、2004年には北オセチアのベスランでの学校占拠事件(322名死亡)など、一般住民の多くも犠牲となった。独立派にはイスラーム過激派組織のアルカーイダが加わったとされており、プーチン・ロシア大統領は独立運動の抑圧よりも「テロとの戦い」という大義名分を正当化した。2009年までにはロシア軍は独立派とテロ組織をほぼ制圧したと発表し、一応の治安は回復されたが、なおも独立要求は収まっていない。

Episode 「恐ろしい」という意味の首都名

 独立をめぐる武力紛争が続くチェチェン共和国で、首都グロズヌイの名を変える動きが表面化している。共和国議会下院が、2004年5月に独立派武装勢力に暗殺されたアフマド・カドイロフ前大統領にちなんで「アフマド・カラ(アフマドの町)」と変えたいとロシア連邦政府に要請する決議をした。「グロズヌイ」の意味は「恐ろしい」。1818年にチェチェンの属するカフカス地域征服のため、帝政ロシア軍が築いた要塞に由来する。下院はチェチェン民族の悲劇に結びついた名は変えるべきだという。これに対してロシア連邦側は、プーチン大統領が改名を認めなかった。連邦側ではカフカス制圧の歴史に結びつくグロズヌイへの愛着が強い。<2005年12月31日付『朝日新聞』による>

参考 一女性記者の怪死

 2006年10月7日、モスクワのアパートの一室でマリア=ポリトコフスカヤの射殺死体が発見された。彼女はノーバヤ=ガゼーダ紙の記者としてチェチェン紛争を取材し続け、独立派に対するロシア軍の不法行為やプーチン大統領の強硬姿勢をしつこく批判していた。容疑者としてチェチェン人の実行犯と元警察幹部のロシア人が逮捕されて有罪となったが、ロシア人警官に資金を渡して殺害を計画させたという黒幕がいたとされる。その特定は依然としてされていない。ポリトコフスカヤ記者は両親はウクライナ人、ニューヨークで生まれアメリカとロシアの国籍をもつ。ロシアでのすぐれた女性記者として受賞歴もあるが、その報道姿勢がチェチェン独立派寄りであるとか、プーチン批判が激烈であるとかでロシア秘密警察に狙われていたといわれている。チェチェン紛争ではプーチン・メドヴェージェフ政権を通して20万人の犠牲が出ているが、ポリトコフスカヤ記者はプーチン政権が旧ソ連と同じか、それ以上の秘密体質があることを告発しようとしていたのだろう。
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