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原子爆弾

第二次世界大戦末期の1942年からアメリカが製造を開始し、完成直後の45年8月、広島・長崎で使用した核兵器。あわせて約30万の犠牲を出し、日本は無条件降伏を受理する。

 20世紀に入ってアインシュタインらによって急速に進められた原子物理学は、戦争という時代の要請によって、一気に原子爆弾という悪魔的な大量破壊兵器を人類にもたらしてしまった。原子爆弾の出現は近代科学の行き着いたところとして、科学のあり方、科学者の倫理という大きな問題を突きつけることとなった。原爆の出現に至るステップは複雑であるが、1938年に核分裂が発見されてからわずか7年で実際に使用されてしまったという開発の速さは、科学者の純粋な研究と、国家権力がそれを戦争に利用しようとする思惑との結果であったことは間違いない。アメリカで原爆の開発にあたった学者の多くは、ヨーロッパのファシズムやユダヤ人迫害を避けて亡命した人々であった。ナチス=ドイツの手で核兵器が実用化される前に成功させなければならないというのが彼らの使命と考えていたのだった。

アメリカの原子爆弾開発

 アメリカのF=ローズヴェルト大統領は、1942年8月13日、原爆製造計画であるマンハッタン計画に着手し、トルーマン大統領がその実用化を45年7月の連合国首脳会議であるポツダム会談のときに掌握した。大統領は密かに日本への投下をねらい、日本がポツダム宣言を受諾しないことを確かめ、8月6日と9日に連続して広島・長崎に投下した。この新型爆弾は、両市を破壊し、多数の犠牲を出した。日本政府は8月14日日にポツダム宣言を受諾し、戦争が終わった。

広島・長崎への投下

 この広島・長崎への原爆投下はアメリカ大統領トルーマンが決断したことであったが、その理由はなおも抵抗を続ける日本に対し、上陸作戦を実行すれば100万もの犠牲者が出ることが想定されたので、戦争を終わらせるためにはやむを得なかったと主張されている。しかし、原爆の使用が人道的に許されるのかは批判が多い。またアメリカ軍の判断も日本を敗戦に追い込むより、戦後のソ連との対立を見込み、ソ連よりも先に原爆を開発し、使用しておくことが必要だったという理由が大きかったともされている。
 いずれにせよ、人類最初の核兵器の使用であり、戦闘員による戦争の枠を遙かに超え、一瞬のうちに数万の人命を奪う、戦略目的の大量破壊兵器の使用が最初におこなわれたのだった。

戦後アメリカの核開発

 第二次世界大戦後、1949年にソ連が原爆実験に成功したことから、にわかに核兵器開発競争が激化し、1951年から、ネヴァダに核実験場を設けたアメリカの核実験が盛んに行われるようになった。 → 核兵器開発競争

マンハッタン計画

1942年8月、アメリカ政府が原子爆弾製造を決定して準備にはいった。計画から完成までをマンハッタン計画と称した。

 1938年にドイツのオットー=ハーンとフリッツ=シュトラースマンが核分裂を発見、それを兵器に利用すれば、莫大な破壊力を持つ原子爆弾を製造することができることが判った。1939年10月11日、高名な物理学者でドイツからアメリカに亡命していたアインシュタインF=ローズヴェルト大統領に手紙を送り、原子爆弾の開発を急ぐよう進言した。アインシュタインらの情報から、ドイツで原子爆弾が製造される危険性を感じ、その開発を急ぐこととなった。
 1939年に本格的な検討に入り、1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃を機に第二次世界大戦に参戦した後、1942年8月13日、F=ローズヴェルト大統領は原爆製造を決定し、陸軍直轄のマンハッタン地区で開発されることとなった。そこでこの計画はマンハッタン計画と言われることとなった。開発はオッペンハイマーらの手によって進められ、ヨーロッパから亡命してきたフェルミ(ユダヤ系イタリア人)、ボーア(デンマーク人)、シラード(ハンガリー人)などの物理学者も協力した。45年7月に完成し、ニューメキシコ州ロスアラモスの砂漠で実験に成功、トルーマン大統領わずか3週間後1945年8月6日~9日に広島・長崎に投下することを決定した。 → オッペンハイマーについては水素爆弾の項を参照。

Episode ノーベル賞受賞式場からアメリカに亡命した科学者

 1938年、イタリアのフェルミは、中性子照射によって元素の人工変換に成功したことを評価されノーベル物理学賞を受賞した。ところが授賞式の後、フェルミはイタリアには戻らず、家族とともにストックホルムからアメリカに亡命してしまった。フェルミの妻がユダヤ人でありファシストによる迫害が迫っていたからであった。シカゴ大学に移ったフェルミは1942年には最初の原子炉を組立て、核分裂の制御に成功し、原子爆弾製造を一歩進めたのだった。<小山慶太『科学史年表』中公新書 p.230>

Episode 原爆投下に反対した科学者-『シラードの証言』

 1939年8月、F=ローズヴェルト大統領に、原爆の開発を急ぐべきだと忠告した亡命科学者はハンガリー生まれのユダヤ人レオ=シラードという科学者だった。無名だった彼は自己の考えを大統領に知ってもらうため、著名な科学者であった同じユダヤ系のアインシュタインに頼んで、アインシュタインからの書簡という形で訴えたのだった。しかしシラードは、原爆の開発が進むうちに、そのすさまじい破壊力を戦争に使うことに疑問を持つようになり、1945年5月にはドイツが降伏したため、原爆を対日戦に使用する必要はなくなったと考え、再びアインシュタインの紹介状を得て、トルーマン大統領(F=ローズヴェルト大統領は4月に死去)に直訴し、原爆投下に反対した。シラードが原爆投下に反対した理由は、それがソ連との核兵器開発競争の引き金となり、将来のアメリカの安全にとっても必ずしも益にならないと考えたからであり、核開発を個別の国で行われることの危険性を指摘し、国際管理の必要性を強調したのだった。しかし核開発のマンハッタン計画を推進していたオッペンハイマーらの多くの科学者は、原爆の投下が戦争を終わらせ平和を実現し、多くのアメリカの兵士の命を助けることになるという大統領と軍隊の決定を受け入れた。<レオ・シラード『シラードの証言』1982 みすず書房> 
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書籍案内

リチャード・ローズ
『原子爆弾の誕生』上
1995 普及版
紀伊國屋書店

リチャード・ローズ
『原子爆弾の誕生』下
1995 普及版
紀伊國屋書店

レオ・シラード
伏見康治訳
『シラードの証言』
1982 みすず書房