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リュクルゴス/リュクルゴスの改革/リュクルゴスの制

古代ギリシアのスパルタの軍国主義と言われる国家体制を作った人物とされる。人物の実在は明確でなく、軍国主義体制は前6世紀半ばまでに成立したと思われる。

 リュクルゴスは古代ギリシアのアテネと並ぶ重要なポリスであるスパルタの、軍国主義と言われる体制をつくった人物とされ、その改革を「リュクルゴスの改革」、できあがったスパルタの国家体制を「リュクルゴスの制」(体制)と言っている。ローマ時代に書かれたプルタルコスの『英雄伝(対比列伝)』にリュクルゴス伝があり、それによると前9世紀の人とされているが、そのころリュクルゴスという人物が実在したことは確かめることができない。スパルタにはリュクルゴス以前から二つの王家があったが、そのもとでの国政の全体はリュクルゴスが作り上げたとされているが、なかば神話的な人物であって実在は疑わしい。
 「リュクルゴスの制」(リュクルゴス体制)といわれるスパルタの国家体制は、リュクルゴス一人に帰することはできず、おそらくドーリア人の征服過程で、前7世紀から前6世紀半ばまでの間に形成されたものであろう。
リュクルゴスの制の成立時期 前7世紀初めごろ、スパルタは隣国のメッセニアを征服し、その土地をスパルタ市民に分配、メッセニア人をヘイロータイ(奴隷)やペリオイコイ(半自由人)としているが、そのころからスパルタ独自の支配体制づくりが始まり、前6世紀半ばまでのあいだに徐々に整備された国制であると考えられている。<桜井万里子『ギリシアとローマ』1997 世界の歴史1 中央公論社 p.95-97>

リュクルゴスの制

 国家主権は民会にあり、二人の王を含む三〇人の長老からなる長老会が民会にかける提案を用意する。またギリシア最強と言われる重装歩兵ファランクスから成る陸軍をもち、その軍は地縁的な五部族に立脚している。重装歩兵として支配層を構成するスパルタ市民は、食事に至るまで厳格に共同生活を行い、青少年を共同で育成にあたった。スパルタ市民の経済的基礎をなす土地(クレーロス)は平等に分割され、その売買譲渡は禁止されていた。また、特徴的なこととして、貴金属貨幣は製造されず、成文法も持たなかった。
 その特質は、自由民であるスパルタ市民が戦士団として軍事的優位にたち、半自由民のペリオイコイと奴隷であるヘイロータイを支配する国家体制であることにある。「スパルタ教育」という厳しい規律による青少年の教育も、軍事国家体制を維持するための方策であった。 → スパルタの軍国主義

Episode ヘロドトスの伝えるリュクルゴス

(引用)スパルタで名望高かったリュクルゴスという人物が、神託を乞うためデルポイに行ったとき、奥殿に足を踏み入れるやいなや、巫女が次のようにいった。”リュクルゴスよ、わが豊かなる社に来たりしよな。そなたはゼウスをはじめ、オリュンポスに住まう八百万の神の寵児じゃ。わが託宣を授くるそなたはそも神か人か。いやそなたは神であるぞ。”巫女はさらに、現在あるスパルタの国制をリュクルゴスに伝授したとも伝えられる。しかし、スパルタ人自身の伝承に拠れば、これはリュクルゴスが、彼の甥で当時スパルタの王であったレオポテスの後見役となった後、クレタ島からもたらしたものであるという。すなわち彼は甥の後見役になるとすぐ、法律をことごとく改変し、新法の違反を厳重に取り締まったのである。リュクルゴスはその後さらに、兵制を改めて、血盟隊、三十人隊、共同食事などの制度を定め、また監督官や長老会を創設したのである。このようにしてスパルタは変貌し、国制が大いに整ったが、スパルタ人はリュクルゴスの死後、彼のために聖廟を建て、深く尊崇して今日に及んでいる。<ヘロドトス『歴史』巻一 65~66節 松平千秋訳 岩波文庫(上) p.52-53>
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書籍案内

桜井万里子他
『ギリシアとローマ』
世界の歴史1
1997 中公文庫