印刷 | 通常画面に戻る |

扶南

紀元後1世紀末ごろ、メコン川下流に生まれた王朝。港市国家の一つ。中国で扶南王国として知られたが民族系統は不明。オケオ遺跡の発掘でインド、ローマ帝国、後漢などとも交易し、繁栄していたことが判明。7世紀にクメールによって滅ぼされた。

扶南王国

扶南王国最盛期(3世紀)
『東南アジアの伝統と発展』p.100の地図と記事をもとに作成。正確な領土を示すものではない。
……は当時の東西海上交易路の推定

ふなん、とよむ。扶南と漢字で書くのは中国の歴史書に現れた表記で、クメール語のプノーム(山の意味)と関係があるらしい。紀元後1世紀末に中国の歴史書に扶南王国として現れ、東南アジアで最も早く成立した王朝と考えられている。この王朝をつくった民族は、クメール人(オーストラロアジア系民族、現在のカンボジア人)ともいわれるが、マレー人(マレー=ポリネシア系)説もあり、また確定していない。その位置は、メコン川下流の現在のカンボジアからベトナム南部にかけて成立した王朝であるが、最盛期の3世紀ごろにはタイランド湾(かつてのシャム湾)沿岸からマレー半島北部までひろがった。
 扶南は現在のベトナム南部からカンボジアにかけて存在していた国家であるが、ベトナム中部のチャム人の建てたチャンパー(林邑・占城)、ベトナム北部で中国王朝の支配を受けていたベトナム人(後に大越国を建国)とは異なるので注意を要する。7世紀中頃までに、メコン川上流に起こったクメール人の国である真臘(カンボジア王国)に征服された。

建国神話とインド化

 扶南王国はカウンディンヤというインド人バラモンの王子が、南方より海路やってきて、その地の人民を服従させ、柳葉という名の女首長と結婚した、という建国神話がある。3世紀に中国の三国時代のの使節が派遣され、中国とも関係が深かったが、その後、4~5世紀にヒンドゥー教・シヴァ神信仰・サンスクリットなどを取り入れ、「インド化」が進んだことが建国神話に反映しているものと考えられる。

オケオ遺跡に見る広範な交易

 彼らは海上貿易でも活躍し、中国にも使節を派遣し、タイランド湾に面する港オケオは東西交易の拠点として繁栄した。メコン川を利用して内陸の物資を集積し、それを南シナ海交易圏でインドや中国との交易を行って利益を上げるという港市国家であった。このオケオは1940年代にフランス人の考古学者によって発掘され、遺跡から東西交易の繁栄を示す遺品、インドの仏像、神像、後漢の鏡、ローマ帝国の金貨などが出土し、この時代に海上で活発な東西交易が行われていたことが判った。

参考 扶南→プノンペン

 「扶南」の位置はどの辺だったか。漢字が使われているので、中国に近い現在のベトナム北部あたりと勘違いしやすいが、メコン川下流のほぼ現在のカンボジアにあたる。実際には東南アジア全体にその支配領域を及ぼしていたらしい。この扶南は、クメール語の山を意味するプノムの古語プナムからきた言葉で、その地方の王が「クルング=プナム」すなわち「山の王」と言われていたのを中国人が扶南と書き写したものとされている。メコンデルタの平野部では小高い山が神聖な場所とされていたらしく、カンボジアの首都のプノンペンも「ペンの丘」という意味で、古い塔のあるペンの丘の南に出来た街である。扶南→プナム→プノンペン、と連想すれば、これがカンボジアの古代国家だったことが思い出せる。<石井米雄『世界の歴史14』インドシナ文明の世界 講談社 1977>

扶南王国の繁栄

 東南アジアの歴史に関する、文献上や考古学上の研究が進み、扶南王国についてもいろいろなことが判ってきている。
内陸の農業を基盤に海外交易で繁栄 扶南王は山(プナム)の王の肩書きを持ち、海上交易に加えて肥沃な後背地の開発によって国力を増大させ、内陸の都のヴィヤダプラ(中国史料で特攻城)と運河で結ばれたオケオを外港とし、内陸部は沼沢や湿地を埋立て多くの水路が張りめぐらされた肥沃な耕地に造り替えられた。この肥沃な後背地の農業を背景に、外港オケオではインドや中国、近隣諸国の船を迎え入れていた。
インド、中国との関係 扶南の隆盛を伝え聞いた中国とインドはそれぞれ使者を派遣してきた。4代目の范蔓王は扶南大王と称して富国強兵策をとり、強力な艦隊を編成して、チャオプラヤー河流域及びマレー半島北部を征服し、その支配はクラ地峡に及んだ。3世紀前半にはインドの大月氏(クシャーナ朝)に使者を派遣、中国の三国時代のからは通商使節が来た。この時の使節は扶南王国の情報を次のように伝えている。
(引用)住民は金・銀・絹布をもって交易し、金製の指輪や腕輪、また銀食器を作っている。大家の男とは錦を載(き)って横に巻き、貧者は布でもって覆っている。国王は数階の楼閣に住み、象に乗る。女官や近侍もまたこれを使う。村の住民は家に井戸を掘らず、みな一つの池から水をくむ。娯楽としては闘鶏や闘豚があり、この国には牢獄は存在しない……。<石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』1998 中央公論新社 p.104 引用の『南斉書』>
扶南王国の衰退 その後も中国への使節派遣・朝貢は続き、王は安南将軍扶南王に列せられた。全盛期は4~5世紀まで続いたようだが、6世紀にはインド及び中国との通商の減少、王位継承をめぐる内紛もあって弱体化し、東の隣国チャンパとの抗争、メコン川中流のカンボジアのクメール(真臘)の南下にも脅かされるようになった。最終的には7世紀前半に、クメール人の攻勢によって滅びた。<石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』1998 中央公論新社 p.97-106>

参考 最近の扶南の説明

 また、最近の研究で、従来の扶南の説明にも変化が現れているので、参考のためふれておく。
  • かつては1世紀末に成立した、東南アジア最古の王朝、といわれることがあったが、最近は、チャンパーやビルマの海岸部にも早くから港市国家が生まれていたことが判ってきており、かならずしも扶南が最古とはいわれなくなっている。その成立時期も1世紀末よりは、1~2世紀と幅があるように説明されている。
  • その人種についてはクメール人かマレー人のいずれか、と言われていたが現在も結論は出ていない。むしろ現在の民族観に当てはめて何民族と断定する事は無意味ではないか、とされるようになった。また「扶南」という国号はあくまで中国での表記であり、他の中国史料に現れる東南アジアの歴史上の国名・地名と同じように、現地のどの音を漢訳したのは正確にはわからない。
  • インド人のバラモンが渡来して扶南を建国したという建国神話は、東南アジアの「インド化」が西欧やインドの学会で強調された時期に取り上げられたことであるが、最近は東南アジア諸国の民族主義的歴史観が台頭し、インド化には否定的な見解も出されている。扶南もかつては「インド化の最初」あるいは「第一波」と強調されていたがが、インド文明の影響を受けているのは事実であるとしても、インド文明一色になったわけはなく、インド人の直接的支配があった訳でもない(日本が漢文化の影響を受容したのと同じ程度だったと考えればよいだろう)。インド化の強調も、その反動として民族主義的歴史観も、偏った見方になりやすいので注意を要する。 → インド化の項を参照
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

石澤良昭/生田滋
『東南アジアの伝統と発展』
2009 中公文庫