邑
古代中国の集落、およびいくつかの邑を統合して成立した城壁を持つ都市国家。
邑(ゆう)は周囲を壁でかこまれた聚落のことで、その象形文字である。前4000年紀の中国の新石器時代、定住生活が始まり農業生産力が徐々に高まっていくなかで、各地に村落(ムラ)が生まれてきた。しだいにいくつかのムラを統合して周辺の人々を集住させ、周囲を城壁で囲んで防衛する規模の大きな城郭都市が出現した。そのようなムラおよびそれが発達した城郭都市を邑といっている。邑の住民は同一血族である氏族と意識され、有力者が族長として祖先に対する祭祀を行い、住民は周辺の農地を支配して租税を納めた。また、周辺の邑との交易も行われ、邑の支配者は経済的な管理も行っていた。このように、邑は他の古代文明圏における都市国家にあたると言える。このようにして成立した邑の中で最も有力となって大邑といわれた「商」を中心にして、邑の連合体として成立したのが殷王朝であり、そのような国家形態を邑制国家ということもある。

殷周時代の甲骨文字や青銅器の銘文で「邑」にあたるのが、右図である。邑は、囲いの下でヒトが横ざまにひざまずいている様子を表している。邑は、環濠・塁壁など、なんらかの囲いで区画された人々の居住区をあらわしている。邑は城郭をもつ聚落とちかいされがちであるが、邑がすべて城郭をもつとはかぎらない。むしろ城郭のないほうが多い。殷墟の大邑商のように首都でさえ城郭のないものもある。
考古学の調査・報告によると、新石器時代から春秋時代にかけて、区画された領域に10家族程度が暮らす小聚落から、一辺数百メートル規模の城壁や環濠によって囲われた大規模聚落まで様々な規模の聚落が見られる。これらの囲繞聚落を邑と呼ぶべきである。
仰韶文化期の聚落は基本的に単独聚落であった。陝西省臨潼県の姜寨遺跡は、周囲を環濠でかこまれた単独聚落で、そのなかに200人前後が暮らしていた。仰韶文化期を通じて、聚落内の階層構造が現れ、竜山文化気になると三層程度の階層構造をもつ集落群が形成されるようになる。竜山文化期の城子崖聚落群は、中心聚落は東西445m。南北540m、面積20余万㎡であり、その周辺に面積3~6万㎡程度の中級聚落が七カ所あり、中級聚落の周辺に面積数千~2万㎡の小規模聚落が30数カ所分布している。このような三層構造を持つ聚落群の編成が中原の邑の基本形態であったことが確認できる。<渡辺晋一郎『中華の成立』シリーズ中国の歴史① 2020 岩波新書 p.12-14 による構成>
邑のなりたち

考古学の調査・報告によると、新石器時代から春秋時代にかけて、区画された領域に10家族程度が暮らす小聚落から、一辺数百メートル規模の城壁や環濠によって囲われた大規模聚落まで様々な規模の聚落が見られる。これらの囲繞聚落を邑と呼ぶべきである。
仰韶文化期の聚落は基本的に単独聚落であった。陝西省臨潼県の姜寨遺跡は、周囲を環濠でかこまれた単独聚落で、そのなかに200人前後が暮らしていた。仰韶文化期を通じて、聚落内の階層構造が現れ、竜山文化気になると三層程度の階層構造をもつ集落群が形成されるようになる。竜山文化期の城子崖聚落群は、中心聚落は東西445m。南北540m、面積20余万㎡であり、その周辺に面積3~6万㎡程度の中級聚落が七カ所あり、中級聚落の周辺に面積数千~2万㎡の小規模聚落が30数カ所分布している。このような三層構造を持つ聚落群の編成が中原の邑の基本形態であったことが確認できる。<渡辺晋一郎『中華の成立』シリーズ中国の歴史① 2020 岩波新書 p.12-14 による構成>