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易姓革命

中国での王朝交替を、天帝の意志が変わることによって起こったとして肯定する思想。戦国時代の孟子が明確に述べた。

 中国では王朝が交替することを易姓(えきせい)革命と言った。易姓は王朝の支配者の姓がかわる(易る)こと、革命は天の神(天帝)の意志(命)がかわる(革る)ことを意味する。殷(商)の紂王が悪徳の限りを尽くし、民を虐待したため、天の意志でに交替したのがそのはじめであり、それ以後「革命」は中国では王朝の交替のことを意味していた。現在では revolution の訳語として使われている。なお、易姓革命の形式には禅譲放伐の二つがあるとされている。

孟子の革命論

 中国で初めて「革命」の思想を明らかにしたのは、戦国時代の諸子百家の一人、孟子だった。戦国の七雄の一つに挙げられていたは、もとの斉王の家臣団の一つであった田氏がその王位を奪ったものでふつう田斉といわれている。国家の主権の基盤に問題を抱えていた斉の宣王が孟子に会ったときに、まっさきに聞いたのが「の湯王は夏王桀を放逐して殷王朝を建て、の武王は殷の紂王を征伐して周王朝を確立した。臣下がその君主に反抗し、君主を殺して、つまり革命を行ったということは歴史上の事実か?」ということだったのは、そのような事情があったからだった。孟子が「古い書物にそう書いてある」と答えると、宣王はさらに「臣下の身分で主君を殺すことが道義的に許されるのか」と反問した。
(引用)孟子は答えて「仁愛をそこなうものは賊であり、道義をそこなうものが残である。こういう残賊をおかすような悪人は、天子にして天子でなく、一個の人間に過ぎない。だから、殷の湯王や周の武王は、天子にして天子でない残賊、すなわち一個の人間に過ぎない夏王桀や殷の紂王に反抗してそれを殺したのである。殺した相手は一個の人間にすぎなかった」という。
 これが有名な中国における革命論である。すなわち、中国を統治する君主は、人民の人望をえている聖人である人が、天から命じられ、天の代理である天子として人民を治めるのである。だから、暴虐な君主たちは人民の人望を失い、人民に反抗され、そしてけっきょくそのくらいを追われる。ここでいう天は、仮想的・抽象的なものであるが、その天がいままでその王朝に命じて天下を治めさせていたのが、その命令を改めて、人民の人望を失った暴虐な君主を放逐し、その代わりに、新しく人望をえている者に命じて天下を統治させる。人民の世論に応じて天が命を革(あらた)める――この革命論を初めて打ち出したのが孟子である。<貝塚茂樹・伊藤道治『古代中国』2000(初刊1974) 講談社学術文庫 p.485>
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貝塚茂樹・伊藤道治
『古代中国』
講談社学術文庫