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洛邑

中国の周(西周)の都の一つ。前770年に鎬京から当選した周の王室も都とした。後の漢・唐では副都とされ、後漢では都洛陽となる。

 黄河中流の河南省、現在の洛陽市。はじめの第二代成王(武王の子)の時、武王の弟の周公旦(斉の初代)が、殷の遺民を抑えるために建設した、周の第二の都であった。成周ともいう。
 現在の洛陽市の西側に西周期の遺跡が集中しており、その一帯が洛邑(成周)の中心部で会ったと考えられ、漢の洛陽城と重なっている。後漢の洛陽城はその東に別に築かれた。成周は新邑とも呼ばれ、河南・山東方面の東方計略の拠点となり、成周八師と呼ばれる軍隊が配備され、西八師といわれた鎬京(宗周)に配備された部隊と対をなしていたと考えられる。なお周王朝の都邑は、金石文によると鎬京(宗周)と新たに造営された成周の他にいくつか存在したようであるが、その所在地についてはまだ確定的ではない。<佐藤信也『周―理想化された古代王朝』2016 中公新書 p.42-45>

周の東遷

 周(西周)の都鎬京が犬戎に占領されて滅んだ後、前770年に周王室の一人の平王が洛邑に移り、周を再興した。平王が洛邑に入った年は正確にはわからないが、それ以降を東周といい、洛邑は以後その滅亡(前256年)まで東周の都として続く。

漢・唐のの東都

 この地は、渭水流域から中国の平原部(現在の河南省に当たり「中原」と言われた)への出口にあたり、軍事的にも重要な交通の要衝であったので、漢・唐でも都の長安に対して東都と言われた。また後に洛陽と称され、後漢、三国時代の魏、南北朝時代の北魏(孝文帝以降)などの都となった。
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